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好詞 好句 好段(さらに) [言葉]

小学生向き参考書、といった感じの『好詞 好句 好段』
だが、当時かなり売れていた本らしい。私も書店の店頭近くに
大量に平積みされていたので、何となく買っちゃったのだ。
私のような「晩学の徒」には、これはこれで役には立つ、
とは思うけれども。小学生が言葉を学ぶ本としては、
どうなんだろう、という感じがする。

好詞(各項目ごとにあげられている熟語)はともかく、
それらを使った例文が、もっともらしく掲げてある
好句、好段となると・・。中国の子供たちはこれらを
暗誦し、丸ごと覚えているのではないだろうか。
自国語である中国語が、使いこなすのに多大な労力を
必要とする言葉だとは、確かなことのようだが。

それでも、言葉を身に着けることが、楽しみに
繋がらないようではいけない、という気がするのである。
豊かな好奇心や、未知の世界に出会う時のワクワク感なしに、
ただ、丸覚えするためのものであってはならないのでは、と。

この手の本が、ある程度のストーリー性を持った、
詩のようであったらなあ、という気がする。
西洋圏の人たちは多く、聖書で言葉を学ぶ、という
ことを思い出す。聖書には確かにストーリーがあり、歴史があり、
汲みつくせない、不思議な世界観がある。知的好奇心が満たされ、
さらに創造力も養ってくれそうな・・・。

言葉はほとんどの人にとって何らかの手段であって、目的ではない。
でも、子供たちにとって、あまりにも労力の多い自国語は、
「目的化」させてしまうような、危うさを孕んでいるのではないか。
『好詞 好句 好段』を読みながら、そんなことを考えた。


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好詞 好句 好段 (続) [言葉]

続いてこの『好詞 好句 好段』の、「好句」で
紹介されている例を見てみることにする。
好句は、一行の文章になっている。

 這閃閃発光的双眼、像両顆烏黒的的宝石シャン(金偏に
 譲の旁)嵌在瞼蛋上。

この文の意味は、「そのキラキラと輝く二つの瞳は、まるで
真っ黒い宝石をほっぺに象嵌したようである。」

意味もそうだが、何しろ、漢字が(一部は簡体字だが)
ものすごく難しい。小学生が自国の言葉を学ぶのに、
どれだけのエネルギーが注がれていることか・・・。
想像するに余りある。
日本語は仮名があって良かったなあ、とこんなところで
ホッとしたりして・・・。(続きます)
 


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好詞 好句 好段 [言葉]

十年ほど前のことだが、中国の上海で二か月、
生活していたことがある。上海語は北京語(いわゆる普通語)
とは全く異なる。ほんの少しだけ普通語を学んだことのある
私も、上海の言葉は全く理解できなかった。
だが、文字にすれば、だいたい通じる。

それでもう少し中国語が使えるようになりたいと思い、書店で何冊か
小学生向きの読本を購入した。その一つが『好詞 好句 好段』。
「小学生」と表紙に明記してあるが、いったい何年生くらいを
対象にしたものだろう。
随分難しい内容で、漢字もすごく画数の多いものが沢山ある。

帰宅してからじっくり読んでみると、この本は、表現のための
辞典のような形式の本なのだった。写人篇、記事篇、描景篇、など
大きく四章にわかれ、さらに事項ごとに分かれている。
写人篇では目や顔、眉、など人間の部位ごとに分かれている。
そしてそれらを形容する言葉(好詞 好句)が二、三十種類、
さらに短い文章(好段)が数種、紹介されているのである。

見ていると面白い。たとえば「目(中国語では眼晴)」の項では
「眼光」や「眼力」など、日本人にもすぐにわかる言葉の他に
「眼梢」とか「眼神」、さらに「慈祥」「堅定」などという
言葉もあって、どういう意味なのかなあ、目とどんな関係が
あるんだろう、と興味がそそられる。
さらには「圓溜溜」とか「骨碌碌」などという言葉もあり、
小学生がこんな漢字も覚えるのか、と驚かされる。
        (この項、続けます)
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リスとシマリス・続 [言葉]

squirrel(リス)と chipmunk(シマリス)に限らず、
英語には動物の名称を厳密に区別している例が多く、
日本人には戸惑わされることが多い。ウサギの
hare とrabbit、 ワニのcrocodileと alligator、サルの
monkeyと ape、ハトのdoveと pigeonなどなど、
枚挙にいとまないほどあり、どのように区別するのか、
区別する必要あるのか、と突っ込みたいくらい。

おそらく、西洋人は基本的に狩猟民族だからだろう。
野生動物を捕獲して食料としてきた長い歴史と
経験を持っているため、動物の生態や習性への感覚が
鋭く、厳密に区別して記憶する習慣があり、そこから
動物への名称が細分化した、と考えていいのではないか。

さて、リスとシマリスだが、見かけだけではなく、
生息する場所も異なるらしい。リスは主に樹上だが、
シマリスの方は地面の穴や倒木の洞などに住むという。

そして南部で暮すアメリカ人の中には、リスを食料に
していた(或いは、今もしている)人たちがいるらしい。

  おれたちは森の中で育ってきたし、ガキのころに、
  おれが撃ったリスをフライやシチューにして
  ヤマゴボウのサラダやからし菜と一緒に食べたことは
  何度もあったが・・・。  ランズデール『バッド・チリ』

はて、味はどうなんだろう。ちなみにランズデールは、
東テキサス出身の作家である。テキサスというと牧草地帯
を思い浮かべてしまうのだが、彼が育ったのは、
ルイジアナ州境に近い、サビーン川下流域の湿地帯らしい。
私が暮らしていたノースカロライナの周辺の人たちは
リスを狩るようなことはしていなかったが
あちこちの路上で交通事故死しているリスはよく見かけた。
誰も気にしていないみたいだったが、痛ましい光景だった。
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リスとシマリス [言葉]

南部を舞台にした小説を読んでいると、もう三十年以上も
前に暮らしていたアメリカでの日々が鮮やかに蘇ってくる。

当時周辺でよく見かけた動物もその一つ。
リスは住んでいたアパート近くにいっぱいいて、
元気そうに木の枝から枝へと走り回る様子をよく見た。

アメリカに移って間もないころ、
「あ、リスだ」と指さしたら、側にいたアメリカ人の
女性に「いいえ、あれはchipmunkよ」と正された。
私の眼にはどう見てもリスなのに、このチップマンクとは、
いったい何なんだろう、といぶかしく思ったことを覚えている。
しかも一緒にいた女性はいかにもインドアタイプ、野生動物
なんか、まったく興味なさそうな人なのに、随分詳しいじゃないか。

帰宅してから辞書で調べると、Chipmunkとは「シマリス」とある。
ふうむ、日本語ではリスの一つの種類として名付けられている。
でも、英語では別名を持たされていて、ごく普通に区別されて
いるらしい。なんで、わざわざ?
と不思議になったのだけれど、その頃は毎日やることが山ほどあって、
突き詰めないできていたのだけれど。三十年余りもして、不意に
調べてみようと思い立ったのである。滞米時に購入した
『アメリカの哺乳類』という、ポケット版の図鑑を取り出す。

この本では「chipmunks,Ground Squirrels and prairie dogs」という
項目のもとに、30種類が写真付きで紹介されていた。プレーリードッグも
同じリスの仲間なのかあ、とちょっと驚く。
さて、肝心のchipmunk とsquirrelの違いなのだが。
巻末にまとめて動物の生態を詳しく紹介するページがあり、
そこを読むと、chipmunk 、つまりシマリスと普通のリスの
一番大きな違いは、顔の部分に、縞があるかないか、だった。
私は普通のリスだって、縞があるじゃないか、と思っていたが、
顔に縞のあるリスはいなかったのである。シマリスは、鼻から
目の周りを横切って、耳辺りまで、白や黒の縞模様があるのだった。
また、背中には五本の縞模様がある、と明記してある。
ちなみに、普通のリスは縞があっても、両体側に一本ずつくらい。

ふうむ、長い間の謎が解けたのは良かったが・・・。
               (この項、続けます)



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語りの効用 [言葉]

朝日新聞の今日の朝刊「折々のことば」を
読んでいたら、「人は苦しみを語ることで僅かながらも
それに距離を置ける」という言葉に目が留まった。ふと
思い出されることがあったのである。

二年余り前、私は『二つぶ重い疒(やまひだれ)』という
本を刊行した。2009年に発症した癌の経験について、
その時々に詠んだ短歌と共に綴った闘病記である。
同じ結社の仲間を中心に百五十冊くらいを寄贈したのだけれど、
その中の七割くらいの人から返信を頂いた。驚いたのは、
さらにその中の半分くらいの人が、自分の闘病に関すること、
あるいは家族の闘病に付き合った経験について、綴られて
いたことである。

短歌は私性の強い文芸なので、同じ結社で歌を詠み合って
いれば、それとなく個々の生活を知るようなことにもなり、
私はその中の何人かの方たちが何か病気されているらしい、
あるいは家族に闘病中の人がいるらしい、とは知っていた。
でも、病名とか、どのような経過を辿っておられるのかとかは、
知らなかったし、特に誰かに打ち明けられることもなく、
勿論此方から尋ねたこともなく・・・。

だが、私が闘病記をお送りしたことで、なにか、ご自身の中の
外に向けての柵、のようなものが外れたのだろうか、
長々と、子細に綴られてきた方が多く、本当に驚いた。
人は自分の辛さを誰かに聞いてほしいのだ、と
あらためて思った。短歌はその手段の一つであったはずだが、
もっとそれ以上に強い、語りの場が必要とされているのではないか、
と、改めて気づかされる経験だったのである。

私に語られた方々、そのことで多少でも、苦しみに距離が
できたのだとしたら、『二つぶ重い疒』なる本を出したことに
それなりの意味もあったのだ、と思いたい。

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京都について・続 [言葉]

一千年の歴史を持つ古都・京都に、魅力的な場所が
多々あることは言うまでもなく。何気ない町なかにも、
思いがけない発見があるので、有名な寺社仏閣を
訪れる必要もないくらいである。

そうした歴史的町の魅力と言う以上に、私には
羨望をそそられることがある。町の魅力と
表裏一体ではないか、という意見もあるかも知れないが、
それは、京都に特有の地名、地名の持つ知名度、
その地名に日本人が仮託する諸々の事象、のようなもの。

具体的に綴ってみることにしたい。
「塔」に入会して間がないころ、栗木京子さんが
第一歌集『水惑星』を出版された。そのなかの

  くろぐろと白つめ草に髪垂らし少女ら寝をり賀茂の川辺に
                  栗木京子『水惑星』

を目にした時に受けた衝撃が蘇る。京都は古都であると同時に、
大学の町でもある。明治維新後の遷都の折、古都の空洞化が
懸念され、大学を呼び込む政策が実施されたことによるらしい。

学生という、なんとも贅沢な時間、だが一生のうちでは極めて
限られた時間と、古都の悠久の時間との一瞬の交錯、とも
読めるような歌である。これはやはり、賀茂川だから生きた
歌だろう。多摩川だったら、たちまち事件性を帯びてきそうな、
異様な光景に見えてしまうはず。京都で学生時代を過ごした
作者ならではの作品である。この歌には、地名の知名度と共に、
場の力が生きている。だが、次のうたはやや趣が異なるように思う。

  荒神橋、出町柳、葵橋、橋美しよ学生たちみんな誰も、泣きつつ帰る
                     河野裕子『日付のある歌』

何度読んでも、泣きそうになる。河野さんが乳癌を宣告された
病院からの帰途を詠んだ歌だから。私はこの歌集を読了後、出町柳や葵橋
に出かけてみた。場としては正直、さほど美しいところではないと思った。
作者に美を感じさせたのは、いや、何よりこの歌に力を与えたのは、
学生たちの生命溢れる様子、そして
いかにも京都らしい典雅な、かつよく知られた橋の名前、
橋にまつわる故事・記憶、などのせいではないだろうか。

数年前、私も河野さんと同様の病を宣告され、その帰途は、
まったく地に足がつかないような状態だった。しばらくして、
歌にしようと思った時、やはり河野さんの上記の歌を含む、
幾首かを思い出した。同時に、地名は詠み込めないなあ、と
残念に思ったことを覚えている。私が渡った橋の名を、
ほとんどの人が知らない。その時に歩いた町の名も。
京都に住み、歌を詠む、その有利性を思ったのである。
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京都について [言葉]

「塔」の仲間であるUさんに依頼した
拙著『郷土菓子のうた』の書評が「塔」11月号に、
掲載されたことはすでに書いているが、その中で
Uさんが書かれている

 その疎外感は著者が京都にあこがれるゆえのものだろう。
 (京都)の章からは短歌と京都を愛する一人の歌人の
 たたずまいが色濃く立ち上がってくるような気がする。

という一節は、長く心に残っている。私がかつて
「麩まんじゅう」を知らなかったがために、歌をうまく
解釈できなかった、というところからUさんが推定されている
もので、私の文章に添って読む限り、まさにその通りである。

短歌結社の本部もあり、相棒が関西育ちで近くにはまだ
親族が住んでいる、ということも大きく。
東北生まれで関東住まいの長い私も、この三十年余
京都は第三の故郷、というくらいに、かかわりを深くしている

だが、自分の気持ちをあらためて探ってみると、
私が憧れるのは、京都という現実の「場」ではない、
という気がするのである。実はもっと、短歌そのものとの
かかわりの中にあるような気がするのだ。
その辺り、次回に書くことにする。

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外来語・続 [言葉]

マシュー・アムスター=バートン著・関根光宏訳の
『米国人一家おいしい東京を食べ尽くす』は、日本のごく
普通の食べ物、ラーメンや焼き鳥やコンビニの食品などを
食べながら日本という国に迫る、なかなか面白い本である。
日本人の知らない部分、気づかない部分に光が当てられていて、
そういう意味でも興味深い「食べ物本」なのだけれど。

基本的に文化論に重きを置いているので、食を越えて、
例えば言葉の問題などにも言及していて、私はこちらの方が
興味深く思えた。たとえば、「カタカナ」という章がある。
想像がつくと思うが、ここで英語からの外来語に
ついて言及している。

著者は、日本語は発音できる音節の範囲が
限られているので、英語から借用した何千もの単語が日本風に
発音を変えられている、として、
 英単語を輸入するときは、まず発音をばらばらにして
 日本語の音に移し替え、カタカナで書きあらわす。・・・
 Carl と言う名前は、どんなに頑張ってもにほんごでは
 「Kaaru」と発音するしかない。

とし、
 英語を母語とする人は、日本にいると、英単語を日本語の
 発音で言えるようになるまで、ばかばかしいくらいの時間を
 費やすることになるだろう。

と嘆いているのである。
だが、いったん日本語の特徴がわかってくると、英単語の日本的な
読み方は、レゴブロックを組み立てるようなもので、
まるでゲームのように楽しく話すことができるようになった、
とも書いている。

日本語の発音は、基本的に、五つの母音と
十個に満たない子音との組み合わせから成り立っている、
と理解すれば、簡単なのだと気が付く、ということらしい。

逆にこういう単純な発音体系のなかで暮らしている
日本人の耳と舌について考えてみるとどうだろう。
英語の発音体系を理解し、
聞いたり、話したりすることはかなり困難を伴う、
と言うことになる。いったん、日本風の発音で覚えてしまった
外来語を本来の発音に近づけるのは、容易ではない。

どうせなら、わかりやすい日本語にしてしまえば
いいのになあ、と、やっぱり思う。
Telephoneが電話、Baseballが野球・・、と一つ一つ
日本語に置き換えていた明治初期のように・・・。
いや、もうそうやっていては追いつけないほど、
外来のモノや文化が押し寄せてしまっている、
と言うことなのかも・・・・。
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外来語 [言葉]

日本語は最近とみに外来語が氾濫してきていて、
これでいいのかな、と落ち着かない気持ちもする。

外来語とは、うまく言った、ともいえるわけで、要するに
外国起源の言葉を日本語化したもの、と捉えれば、
どの国にも外来語は多々あって、いつしか本来の言葉が
忘れられるほどその国の言語と同一化している例も多い。
日本語はカタカナで表記しているので、それらしさが
いつまでも残ってしまう、それだから中途半端なまま
なんだ、とも言えそうな気がしないでもないが・・・。

アメリカに住み始めたとき、言葉を話す場面で、
一番の難関の一つがこの外来語、だった気がする。
日本的な発音にどうしても引きずられてしまうので、
通じない、という場面に出くわしてしまうのである。
ある友人は、初めてアメリカに来て、ホットドッグを
買おうとしたが、お店の人に通じず、衝撃を受けた、
と言っていた。お店の名称、マクドナルドも、かなり
発音の異なる単語で、日本語の癖がついたままだと、
百パーセント通じない。

沢山外来語を知っていると、異国語の勉強に有利なような、
そんな幻想を抱いてしまうのだけれど、これが真逆である、
と考えてしまっていい。
と言うのも、発音のみならず、意味という点でも、
日本語の外来語には、かなり独特のバイアスがかかって
しまっているからである。
たとえば、彼はスマートだね(He is smart. )というと、
日本人は体形がかっこいい、という意味しか思いつかない
傾向にあるが、実は「彼は賢い(世渡りがうまい)」という
意味で用いられる方が多いのである。

とはいえ、今更外来語をできるだけ少なくして、
日本語に置き換えて普及させましょう、とはいかないだろうなあ、
と言う気はしている。
次回は、英語の外来語のために、日本で苦労した、
というアメリカ人のエピソードに触れることにしよう。

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