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追悼・古賀康子さん [短歌]

短歌結社「塔」の創刊時からの会員・古賀康子さんが亡くなられた。
享年九十八。私の父より四歳も年上だったんだなあ、と改めて思う。
古賀さんは長いこと、塔の「縁の下の力持ち」みたいな存在でもあった。
一九八八年の年頭、栗木京子さん、祐徳美恵子さんらと私とで
「塔」の記念号のための対談をしたことがあったが、その場所として
古賀さんがご自宅を提供してくださったことがあった。

そのとき、ご自分ではあまり飲酒はされないというのに、
各種のお酒を用意されていた。「塔」の人たちが、何かというと
古賀さん宅を「会議室」代わりに使うらしく、そのために
普段から準備している、と言うようなことを、サラリ、と
仰ったことが印象的だった。大阪の中心部にある大きな一戸建て、
そしておひとりでお住まいである。なんやかんやで、みんな
甘えやすかったんだろう。私たちには、ケーキを用意してくださって、
みんなで感激しながら頬張ったことを昨日のことのように思い出す。

また、私には忸怩たる思いが一つ残っている。2000年に刊行された
彼女の第五歌集、『木造わが家』。これが結果的に最後の
歌集になってしまったのだが、当時私は何かと忙しい時期で、
古賀さんにお礼状を書くのを失念してしまったのである。

2001年の夏から秋にかけては、相棒の仕事の関係で中国で
暮らすことになり、夏の大会は欠席している。その翌年は、
広島大会で、この時は参加。古賀さんとは遠くから目で
挨拶を交わした記憶もある。帰京後、電話をくださった。

「広島では個人的にお話ししたかったのだけれど、機会がなくて・・。
貴女が栗木さんたちと昼食を食べておられたのも、遠くから
見ていたのだけれど、その後、すっと、席を立って、どこかへ
行かれてしまったから・・・。実は気になっていたのは、
二年前に出した私の歌集、あなたに届いていたかしら・・・。」

ああ、何てことをしてしまったのだろう!
私は後悔に胸がふさがれるようになり、ただただ、
電話に向かって頭を下げていた気がする。
私が自著をお送りすると、いつもお手紙を下さっていた、古賀さん。
私の方も、それまでは確かにお礼状を書いていたのに、この時ばかりは
自分のことにかまけて、失礼をしてしまったのだ!

最後にお会いしたのは、数年前の大阪での大会。車いすに
腰かけておられたので、あいさつに出向くと、すぐに
「あなたから頂いたご本にお礼を書いていなかったわ。
気になっているのだけれど・・・」と言われてしまった。

なんだか、泣きそうになってしまった。もう、あの
大輪の花のような笑顔にお目にかかれない。
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天童 [短歌]

山形県天童市は、将棋の駒作りの町として、或いは温泉町として
ご存知の方も多いのではないだろうか。山形市からすぐのところにあり、
ベッドタウン的な存在として発展してきてもいたらしいが・・・。

私の母はこの町育ち。祖父母の家があったので、子供の頃は、
一年に一度(春休みが多かった)は、泊まりに行っていた。
今も母の甥一家が住んでいるが、私は学生の時に一度
遊びに行って以来、四十数年、一度も行っていないのだが。

ところで葛原妙子の最終歌集『をがたま』には
「天童」という短い連作がある。やや長い詞書が付されていて

 「天童」とは憧憬に充ちた羽前の町の名である。天童城始祖
 南朝系天童丸は十四世紀の人。・・・

と始まる。葛原らしいきびきびとした文章に導かれるのは
つぎのような作品。

  幽暗の林檎実らばよりゆきてムーンクイーンと呼ばしむはいかに
  天童のをみなきたりて置きゆきし紅花(こうくわ)乾きて紙の音する
  呼気かすか触るよりなほかすかなり口唇にくれないゐ伸(の)すこと

天童はまた、口紅の原料となる紅花の産地でもあったからである。
読んでいると、子供の頃に従弟たちと遊んだ小川や、土手沿いの道が
思い出されてくる。

母はもう施設にいて少々認知症気味だが、私が行くと待ち構えたように
様々な話をしてくれる。内容は多岐にわたり、特に子供の頃、若いころの
話が多く、その細やかな記憶に驚かされるのである。
母が母の姉(私の伯母)とあまりうまくいっていなかったこととか、
子供の頃、近くに住んでいた祖母(私の曾祖母になる)に
預けられることが多くて、嫌だったこととか・・・。

私にはいつも強く、多く怖い存在だった母。でも、もっと早いうちに
天童での話が聞けていたら、身近な存在に感じられていたかもしれなかった。
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「塔五月号」と一首評 [短歌]

所属している短歌結社「塔」の五月号が届いた。
このところ遅れ気味。一首評の書き手の選出と依頼を
担当している私は、13日を過ぎたころからやきもきし始める。
依頼から月末の締め切りまで、二週間ほどしかない、という
ことになり、お断りされる例も増えてしまうからである。

特にお勤めしている人からは
「塔が、金曜日に届くのと、月曜日に届くのとでは、雲泥の差」
と言われることが多いので、週末までの塔発送を見越して、
依頼状を早めに発送してしまうことにした。近くのポストの集配時間
を見計らって、依頼の葉書を八枚書き(結構大変だ)
投函して半日後に、塔が届いた(う~む)。半日後なら、
実際に誌面を確認してから依頼したのになあ、とか。
毎回、何かある。

「一首評、ご依頼有難うございます。」
「沢山の会員の中から、選んでいただき誇りに思います」
こんなメールが届くと、こちらも嬉しくなる。
中には
「一首評、〇年ぶりの依頼です。選歌欄評者への推薦もしてください。
そちらは〇〇年も、依頼いただいてません」と書いてきた人も(汗!)
こちらは私の一存では何ともしがたい。

中にはこんな風に言ってきた人もいて、ずしんと落ち込んだ。
「赤紙、ならぬ、こんな葉書がきて、ぞっとしました。
誰かに代わってもらいたいです」
赤紙って・・・。


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塔四月号 [短歌]

所属している塔短歌会の四月号が届いた。
今月の特集記事「歌集の作り方」は充実した内容で、
ついのめりこむ様に読んでしまった。こういう特集が組める、
ということが、現在の「塔」の勢いと実力を如実に示すものだろう。

考えさせられたことが多々あるけれど、このブログでは
先ず思いついたことから、メモ的に触れていくことにする。
まずはほとんどの歌集につけられている「あとがき」について。
これは特集の「歌集をまとめる」と名付けられた座談会のなかで
言及されている。座談会の出席者も本音として言われているように、
歌集の「あとがき」から読む、という人は多いようだし、
また花山さんが「・・見えちゃうところあるのよね、『あとがき』で」
と言われているように、歌集ではかなり大切な(かつ、書きように
よっては怖いことになる)部分になっているのだ。

私は歌集を読むようになってから、「あとがき」に気持ちが向かう
ようになったな、と改めて気づいた。小説なら普通はあとがきはない。
でも私は東野圭吾を読んでも、「ああ、なんであとがきないんだ!
読みたい!!! 書いてくれよ」と思うようになってしまった。
作者の「素の顔」のようなものを、求めるようになってしまった。
それがあった方が、何倍も楽しめるのでは、とも・・・。

ちなみに私がすきで時々読む、少女向けの小説のようなものには、
必ず、といっていいほど「あとがき」がある。読者と作者の
立つ位置が地続き、のような、そんな読み物だからか。
となると、歌集に「あとがき」が必然的に求められる理由もわかる。

必要があって最近眼を通した、二つの本を例にとってみよう。
一つは山本紀夫『トウガラシの世界史』(中公新書)と
鈴木福松『フィジー農村社会と稲作開発』(農林統計協会)。
想像がつくと思うが、前者にはあとがきがあり、後者にはない。
だが後者には、詳細な「まえがき」があり、この内容は
十分に「あとがき」を補ってくれそうなものだった。
ふ~む。「あとがき」と「まえがき(はしがき)」。
どうあるべきか、どう書き、どう読むべきか。
考えれば考えるほど、深みにはまってしまいそうな予感がする。
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追悼・出頭寛一さん [短歌]

短歌結社「塔」の仲間だった出頭寛一さんが
この1月12日に亡くなられた。享年七十四。
東京の歌会で三、四度お会いしたくらいだが、
こちらから歌集や歌文集などをお送りすると、
打てば響くように返事をお送りくださり、励まされてきた。

出頭さんといえば、なんといってもすごい、と
記憶に残っているのは、二冊の「手作り歌集」である。
『海鳴りの家』(2002年刊)『もがり笛』(2004年刊)。
前者は濃い青、後者は水色の模造紙の表紙、そして見返し、
扉、帯、目次や頁も入った、立派なもので、完全手作り、と
いうから驚かされる。私が頂いたのはこの二冊だけだが、
他に五冊の私家版歌集を刊行されているそうなので、
それらもまた、手作りなのかもしれない。

帯の背表紙部分に「第六歌集」「第七歌集」と記されていて、
生真面目な出頭さんの性格がうかがえる。初めてお会いしたのは
よく覚えていないが九十年代の後半頃のことで、
どことなくちゃらんぽらんな印象を受けていたので、この歌集を
贈呈されたときは「なんか、騙されてたなあ」って感じがしたもんだ。

2003年にニューヨークに一人旅して、中西泰子さん(すでに故人)
にお会いした時、出頭さんのことを話題にされて
「手作りの歌集を出されているんですってね」と
話を振られた。(ああ、欲しがっておられるんだ)と思ったが、
あんなに貴重な歌集、私には手放すことはできない、と思って、
「らしいですね」と、とぼけた記憶がある。それから間なくして
中西さんは亡くなられたので、ちょっと胸が痛んだことだった。

私は昨年『郷土菓子のうた』を刊行したけれど、その中に
出頭さんの次の一首を引用している。

  そぞろゆくおかげ横町<赤福>の看板は雨に濡れながら呼ぶ
                   出頭寛一『海鳴りの家』

出頭さんはもう体調を崩しておられたはずだが、すぐに
お葉書を下さった。そのなかにこう記されてあった。

 「赤福」のあのような歌ひろってくれるのは
  岡部さんだけです。また一ついのちをもらった気がします。

最後に「短歌は、意外に退屈な夢だった」というような、
歌を残して逝かれた、というようなことも耳にしている。
失意もあったのかなあ、と思うのだけれど。
ご冥福をお祈りしたい。         



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蛙のうた [短歌]

所属している短歌結社「塔」のHPが大きく
更新されたのは三、四年前のこと。ブログは
編集委員の有志が一週ごとに交代で書くことになり、
私もメンバーに加わった。当初は写真の入れ方がうまくいかず、
手こずることも多かったのだけれど、最近はだいぶ慣れてきて。

そして今週はその当番に当たっていた。ちなみに
12人で回しているので、三か月に一度くらいの割で
ブログを書くことになる。普段から心の隅に、ブログネタを
考えながら暮らすようになった。これもまた楽しいのだが。

なんでも書いていいことになっているのだけれど、
短歌結社のHPのブログなのだから、せめて内容に見合った、
短歌を紹介したいと、思ってきた。これが結構大変である。
短歌が見つけられずに断念してしまったネタもあれば、
俳句で代用してしまった時もあった。

今回は「食用ガエル」について書きたいと思って、
写真も用意していたのだけれど、短歌がなかなかない。
アオガエルやアマガエルはあっても、食用ガエルを
詠んだ作品がない。もしかして、あるとしたら・・・。
坪野哲久かなあ、と思った、なんとなく。

彼の全歌集は二、三年前に買って、ざっと読んではいたが。
その作品を逐一覚えていたわけではないのだが・・・。
ぱらぱらっと読んでいて、まさに食用ガエルの歌が見つかった
時は狂喜乱舞してしまった。

  垂仁のみささぎの池になにやつか食用蛙を釣りて釣りおとす
                    坪野哲久『北の人』
結句の「釣りおとす」は、釣り落としてしまった、つまり
うまく釣れなかった、ってことだろう。昭和二十年代の作品で、
この頃は食糧難の時代だったから、神聖な陵池でも蛙を釣って
食の足しにしていた人がいたに違いない。
食用ガエルの写真も載せたので、良かったら「塔短歌会」を
検索して、ブログをご覧ください。


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題詠「音」 [短歌]

今月の横浜歌会は題詠の月で、お題は「音」。
編集長の松村さんが出席されるということもあってか、
参加者は久しぶりの二十名超え、で二十二名参加。
参加者は十代から八十代までと、世代の幅も広い。

私が詠草取りまとめ&作成係を引き受けていたので、
ちょっと大変だった。合計44首の作品をA4判の二枚に、
見やすく打ちだすのが大変で。結局千名さんにSOSを
出してしまった(情けなや)。

作品も質が高く、かつ内容的にも色々で、楽しい歌会に。
音の種類も豊富で、雨音、心音、足音、水音、子音、母音、
音色、無音・・・などなど。様々な音に耳を澄ましながらの
歌会となりました。

作者名が分かって居ての歌会というのは、久しぶりで、
かなりドキドキ、するものだということも改めて
感じてしまった。私はこの日、ぼたん雪がとけていく
状況下、誰かと吐息を吸い合い、体温を分かち合っている、
という作品を一押しで選んでいた。たぶんカップルが
寄り添い、雪の降るのを見つめているんだろうと想像し、
同時に、降るぼたん雪とも息を吸い合っているような、
不思議な印象を受けたからである。
この歌は、実は高校生の会員が詠んだ作品であった。

ところが、評者の中に「性愛の場面かも」と指摘される方がいて、
なるほど、そうも読めるんだけれど、ああ、でも作者の
年齢を考えると、その指摘、ちょっとまずいかも・・。
何も言わなかったが、老婆心が発動しそうになった(冷や汗)。

枕の中から音が足音が聴こえる、と読まれた作品があり、
それも何か不思議な印象がもたらされる歌ではあった。
子供の頃、雪の夜、列車の汽笛の音が枕の中から
聴こえるような気がして、震えながら耳を澄ましていたことが
あった。当時、「幽霊列車」とかいう、確か、雪の夜に
あたりかまわず暴走する列車を描いた漫画があったように
記憶するが(勝手に自分で作りだしたストーリーかも)、
そのことを思い出していた。歌会で出会った歌が、
遠い日の記憶を引き出し、それがまた、新しい自分の
作品に繋がっていく、そんな気もしている。

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歌集と歌文集 [短歌]

「歌集出してから随分経ってますよね、そろそろ次の歌集?」
最近、そんなことを言われることも少なくない。
最後の歌集出してから十五年余りも経つのだから無理ないかあ。

でも心は重い。歌集出しても、あまり読まれている実感が
ないことが第一。売れないのは当然としても、贈呈しても、
ほとんど読まれないのは虚しい。私も贈呈されても、
ぱらっとめくるだけで、あまり気合い入れて読まない、
という時期が長くあった。今はちょっと事情が変わったが。

それは、皮肉にも歌集を出さなくなったことと関連がある。
歌集よりも、いわゆる歌文集に気持ちが向かうようになったから。
十数年前、お菓子の文化史に興味を持ち始め、
それを機に、お菓子の詠み込まれた歌を集めるようになった。
意外に面白い歌が多くて、そのことが六年前に刊行した
『お菓子のうた 甘味の文化誌』につながった。

この本は本当に自分が書きたいものを書きたいように書き、
出したい形で出したもので、出版した時はただただ、
達成感があった。歌壇関係の人や出版社にも贈呈はしたが、
どこの出版社も、書評に取り上げてくれるどころか、
「年間刊行目録」みたいなものにすら、載せてもらえない
ほどだったけれど。それはもう、どうでもいいことで。

一部の友人が「面白い。続編出して」と言ってくれたこと、
また、意外に購入して読んでくれた人がいたこと、にも
気分を良くして、次の『郷土菓子のうた』を構想し始めた。

これは良い歌がなかなかみつからず、難航した。歌文集の
大きな決め手は、良い歌に出会うこと、に尽きるのである。
文章の質を高めてくれるのは、ひとえに歌の力なのだから。
ぽしゃりそうな危機を何度も乗り越え、ようやく昨夏、
刊行できた時は歓びもひとしお、だった。それにそれに・・・。

あちこちの地方紙でこの本を取り上げてくれたからである。
京都新聞、毎日新聞、神奈川新聞、河北新報・・・。
これは嬉しいことだった。おかげでアマゾンに販売を
委託していた分は、昨年暮れに売り切れたとの連絡もあった。
部数としてはわずかなものである。でも、売れた、ということは
大きな励みになる。歌壇の出版社では、販売を委託しても、
そして、多少は売れたはずとしても、何の連絡もくれなかったり
するのに・・・。
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はこべら [短歌]

永田和宏氏の最新歌集『午後の庭』を読んでいたら、

 はこべらの<ら>は等(ら)にあらず繁縷でありしを知りぬ『胡瓜草』のなかに
                   永田和宏『午後の庭』

という一首が目に留まった。ちなみに、『胡瓜草』は
花山多佳子さんが2011年に刊行された第八歌集で
繁縷の歌は二首収録されている
 

  今日のやうな風のふく日に繁縷(はこべら)は花よせあひて受粉するのか
  プランターに冬青かりし繁縷を指もて剥がす捲(めく)るごとくに
                  花山多佳子『胡瓜草』
である。
永田さんの作品を読んで、あ、はこべらの<ら>については、
私も詠んだことがあったぞ、と思い出す。この「ら」を、
「等」と思って詠んだわけではなかったはずだったが、
と記憶があやふやになり、詠草のコピーを引っ張り出してみた。

2016年二月に詠草として提出、「塔」の同年五月号に
掲載されている一首なのだが、

  はこべらの「ら」に呼びかけの響きありはこべ一斉にかしら上げたり
                   岡部史

「はこべら」を「はこべ」と呼び変えて詠んでいる。これは、
誤り、だったっけ。と二年前の創作当時を思い返してみた。
いや、二通りの名称があったのではなかったか。
辞書で確認すると、やはりそうなのだった。
「はこべら」の古語が「はこべ」で、どちらも
「繁縷」と表記するのである。
古語で「はこべ」と呼んでいたものが、
「はこべら」になったんだから、どうしたって、
複数形で「等」がついたんじゃないか、
と考えてしまうのも無理ないところ。
日本語って、おかしいなあ、そして面白いなあ、
と改めて思い、ひとり笑ってしまった。

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吊り橋ぢやない [短歌]

Eテレで放映された永田和宏氏のインタビュー番組
「こころの時代」、録画しておいていたものを観た。
まず「科学者」としての質問があり、例の「三重苦」
が紹介される。私はもう永田さんが書かれている
エッセイ類はほとんどといっていいほど読んでいるし、
講演も拝聴させてもらっているし、で、もちろん、
「どうして自分は物理に落ちこぼれたか」の話は
耳タコなんだった。
(知らない人のために書いておくと、
永田さんは学生運動世代で、入学時大学はほとんど
授業が行われていなかった。これは理科系には致命的で、
このことが一つ。さらに短歌に魅了されてしまったこと、
同時に河野裕子さんと恋に落ちてしまったこと、である)。

でも永田さんの関西訛りのある優しい声が耳に
心地よくて、すっかり聞き入っていた。

やがて、京大病院で乳がんを宣告された当日の河野さんの、
診療終了時を見計らって、永田さんが様子を見に行った時
のことに話が及ぶ。当時永田さんは京大に勤務されていた。
その時のことを、河野さんは短歌に詠まれているのだ。
「病院横を歩いていると、むこうより永田来る」という
詞書の後、
  何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない
                  河野裕子『日付のある歌』

初めて読んだ時、私は衝撃を受けた。他人の私でさえ。
永田さんの衝撃はいかばかりだったろう。何といっても
この結句、このみごとな「飛び様」である。
衝撃を受けつつ、どう読んだらいいんだろう、と
疑問は残った。ずっと、ずっと考え続けてきた。
考えて答えが出るというものではないが・・・。

考えた末「私は私よ、吊り橋(のように不安定なもの)
なんかじゃないの。」と理解するべきか、と思っていた。

ところで、「こころの時代」で永田さんはこの歌に触れられ
「(自分にそういう意識はなかったのだけれど)、
定まらない視線で見てしまっていたのでしょう」
というようなことを仰っていた。ああ、そうだとすると
歌の意味は微妙に変わってくるかもしれない、と思ったのだ。
つまり
「私は地面をちゃんと歩いているじゃないの。吊り橋の
上にいるみたいに、不安定に見えるの?」
というような意味に。

ああ、でも謎である。それでいて素晴らしい結句
であることには違いない。癌宣告という衝撃を受けていて、
さらにこんなフレーズを生み出せることが凄い!
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