So-net無料ブログ作成

京都について・続 [言葉]

一千年の歴史を持つ古都・京都に、魅力的な場所が
多々あることは言うまでもなく。何気ない町なかにも、
思いがけない発見があるので、有名な寺社仏閣を
訪れる必要もないくらいである。

そうした歴史的町の魅力と言う以上に、私には
羨望をそそられることがある。町の魅力と
表裏一体ではないか、という意見もあるかも知れないが、
それは、京都に特有の地名、地名の持つ知名度、
その地名に日本人が仮託する諸々の事象、のようなもの。

具体的に綴ってみることにしたい。
「塔」に入会して間がないころ、栗木京子さんが
第一歌集『水惑星』を出版された。そのなかの

  くろぐろと白つめ草に髪垂らし少女ら寝をり賀茂の川辺に
                  栗木京子『水惑星』

を目にした時に受けた衝撃が蘇る。京都は古都であると同時に、
大学の町でもある。明治維新後の遷都の折、古都の空洞化が
懸念され、大学を呼び込む政策が実施されたことによるらしい。

学生という、なんとも贅沢な時間、だが一生のうちでは極めて
限られた時間と、古都の悠久の時間との一瞬の交錯、とも
読めるような歌である。これはやはり、賀茂川だから生きた
歌だろう。多摩川だったら、たちまち事件性を帯びてきそうな、
異様な光景に見えてしまうはず。京都で学生時代を過ごした
作者ならではの作品である。この歌には、地名の知名度と共に、
場の力が生きている。だが、次のうたはやや趣が異なるように思う。

  荒神橋、出町柳、葵橋、橋美しよ学生たちみんな誰も、泣きつつ帰る
                     河野裕子『日付のある歌』

何度読んでも、泣きそうになる。河野さんが乳癌を宣告された
病院からの帰途を詠んだ歌だから。私はこの歌集を読了後、出町柳や葵橋
に出かけてみた。場としては正直、さほど美しいところではないと思った。
作者に美を感じさせたのは、いや、何よりこの歌に力を与えたのは、
学生たちの生命溢れる様子、そして
いかにも京都らしい典雅な、かつよく知られた橋の名前、
橋にまつわる故事・記憶、などのせいではないだろうか。

数年前、私も河野さんと同様の病を宣告され、その帰途は、
まったく地に足がつかないような状態だった。しばらくして、
歌にしようと思った時、やはり河野さんの上記の歌を含む、
幾首かを思い出した。同時に、地名は詠み込めないなあ、と
残念に思ったことを覚えている。私が渡った橋の名を、
ほとんどの人が知らない。その時に歩いた町の名も。
京都に住み、歌を詠む、その有利性を思ったのである。
nice!(1)  コメント(0) 

京都について [言葉]

「塔」の仲間であるUさんに依頼した
拙著『郷土菓子のうた』の書評が「塔」11月号に、
掲載されたことはすでに書いているが、その中で
Uさんが書かれている

 その疎外感は著者が京都にあこがれるゆえのものだろう。
 (京都)の章からは短歌と京都を愛する一人の歌人の
 たたずまいが色濃く立ち上がってくるような気がする。

という一節は、長く心に残っている。私がかつて
「麩まんじゅう」を知らなかったがために、歌をうまく
解釈できなかった、というところからUさんが推定されている
もので、私の文章に添って読む限り、まさにその通りである。

短歌結社の本部もあり、相棒が関西育ちで近くにはまだ
親族が住んでいる、ということも大きく。
東北生まれで関東住まいの長い私も、この三十年余
京都は第三の故郷、というくらいに、かかわりを深くしている

だが、自分の気持ちをあらためて探ってみると、
私が憧れるのは、京都という現実の「場」ではない、
という気がするのである。実はもっと、短歌そのものとの
かかわりの中にあるような気がするのだ。
その辺り、次回に書くことにする。

nice!(1)  コメント(0) 

外来語・続 [言葉]

マシュー・アムスター=バートン著・関根光宏訳の
『米国人一家おいしい東京を食べ尽くす』は、日本のごく
普通の食べ物、ラーメンや焼き鳥やコンビニの食品などを
食べながら日本という国に迫る、なかなか面白い本である。
日本人の知らない部分、気づかない部分に光が当てられていて、
そういう意味でも興味深い「食べ物本」なのだけれど。

基本的に文化論に重きを置いているので、食を越えて、
例えば言葉の問題などにも言及していて、私はこちらの方が
興味深く思えた。たとえば、「カタカナ」という章がある。
想像がつくと思うが、ここで英語からの外来語に
ついて言及している。

著者は、日本語は発音できる音節の範囲が
限られているので、英語から借用した何千もの単語が日本風に
発音を変えられている、として、
 英単語を輸入するときは、まず発音をばらばらにして
 日本語の音に移し替え、カタカナで書きあらわす。・・・
 Carl と言う名前は、どんなに頑張ってもにほんごでは
 「Kaaru」と発音するしかない。

とし、
 英語を母語とする人は、日本にいると、英単語を日本語の
 発音で言えるようになるまで、ばかばかしいくらいの時間を
 費やすることになるだろう。

と嘆いているのである。
だが、いったん日本語の特徴がわかってくると、英単語の日本的な
読み方は、レゴブロックを組み立てるようなもので、
まるでゲームのように楽しく話すことができるようになった、
とも書いている。

日本語の発音は、基本的に、五つの母音と
十個に満たない子音との組み合わせから成り立っている、
と理解すれば、簡単なのだと気が付く、ということらしい。

逆にこういう単純な発音体系のなかで暮らしている
日本人の耳と舌について考えてみるとどうだろう。
英語の発音体系を理解し、
聞いたり、話したりすることはかなり困難を伴う、
と言うことになる。いったん、日本風の発音で覚えてしまった
外来語を本来の発音に近づけるのは、容易ではない。

どうせなら、わかりやすい日本語にしてしまえば
いいのになあ、と、やっぱり思う。
Telephoneが電話、Baseballが野球・・、と一つ一つ
日本語に置き換えていた明治初期のように・・・。
いや、もうそうやっていては追いつけないほど、
外来のモノや文化が押し寄せてしまっている、
と言うことなのかも・・・・。
nice!(0)  コメント(0) 

外来語 [言葉]

日本語は最近とみに外来語が氾濫してきていて、
これでいいのかな、と落ち着かない気持ちもする。

外来語とは、うまく言った、ともいえるわけで、要するに
外国起源の言葉を日本語化したもの、と捉えれば、
どの国にも外来語は多々あって、いつしか本来の言葉が
忘れられるほどその国の言語と同一化している例も多い。
日本語はカタカナで表記しているので、それらしさが
いつまでも残ってしまう、それだから中途半端なまま
なんだ、とも言えそうな気がしないでもないが・・・。

アメリカに住み始めたとき、言葉を話す場面で、
一番の難関の一つがこの外来語、だった気がする。
日本的な発音にどうしても引きずられてしまうので、
通じない、という場面に出くわしてしまうのである。
ある友人は、初めてアメリカに来て、ホットドッグを
買おうとしたが、お店の人に通じず、衝撃を受けた、
と言っていた。お店の名称、マクドナルドも、かなり
発音の異なる単語で、日本語の癖がついたままだと、
百パーセント通じない。

沢山外来語を知っていると、異国語の勉強に有利なような、
そんな幻想を抱いてしまうのだけれど、これが真逆である、
と考えてしまっていい。
と言うのも、発音のみならず、意味という点でも、
日本語の外来語には、かなり独特のバイアスがかかって
しまっているからである。
たとえば、彼はスマートだね(He is smart. )というと、
日本人は体形がかっこいい、という意味しか思いつかない
傾向にあるが、実は「彼は賢い(世渡りがうまい)」という
意味で用いられる方が多いのである。

とはいえ、今更外来語をできるだけ少なくして、
日本語に置き換えて普及させましょう、とはいかないだろうなあ、
と言う気はしている。
次回は、英語の外来語のために、日本で苦労した、
というアメリカ人のエピソードに触れることにしよう。

nice!(0)  コメント(0) 

人頭鳥声 [言葉]

以前「中国の友人」の項でも触れた、中国東北地方出身のS。
彼女が日本の大学院に在籍していた時、急に尋ねてきた。
「わたしは、うるさいですか」
いったい、どういう意味なのか問いただすと、どうも
日本人の学生たちから「中国の人はうるさい」と
言われてしまって、気にかかっているらしい。

「中国語は音の高低差が大きいからじゃないかな」
ととりあえず思っていたことを話してみる。北京語は
四声があることで知られているが、ほかの地区の方言には、
八声、とか十声ともいわれるほど。音の高低が言葉の
意味を規定する言語なのだから、ほとんど高低差の
ない日本語を聞きなれている者には、耳障りなのである。

先日の朝日新聞「ひととき」欄に、こんな投稿があった。
いつも喫茶店で憩いのひと時を過ごしている投稿者が
あるとき近くの席で大声でしゃべりまくっている人たちが
いて、閉口した。すると同席していた投稿者の娘さんが
「彼らの話は、中国語のリスニングの勉強になる」
と言い出したというのである。ただ、「うるさい」と
思っていた気持ちが和んだ、という内容だった。
意味が分かれば、言葉はたちまち、心に添い、「雑音」
の域を脱するのだけれども。

最近はどこを歩いていても、中国語を耳にする。
北京語だと、どんなこと言ってるのかな、とつい耳を
傾けてしまう。ほんの少しでも聞き取れると嬉しかったりする。
ちっとも聞き取れない広東語やその他の方言だったりすると、
「ああ、ちょっとうるさいかな」と思ってしまうから
勝手なものだけれど。

  中国人女性のむれの乗り来たり人頭鳥声(じんとうちょうせい)
  あやにさへづる            小池光『草の庭』
nice!(0)  コメント(0) 

再びルビについて [言葉]

谷崎潤一郎の短歌を調べようと、全集をめくっていたら、
「梅雨の書斎から」というエッセイに目が留まった。
ルビに関する内容だったからである。谷崎は
雑誌に新聞記者が投稿した「新聞振り仮名廃止論」に
同調する形で自説を展開している。新聞のように
多くの人たちが一時に目を通す文章には、まさに
読みやすさ、理解しやすさが第一に尊重されるべきなので、
この説には基本的には同感なのであるが。

面白いと思ったのは、谷崎が続いてあげている例である。
語源を考えず、意味から漢字をあてはめて使用することに
異議を唱え、例として「可(い)けない」
「家(うち)」、「貴方、貴女(あなた)」「急遽(やには)」
などを挙げている。
それぞれの漢字としては「行けない」「内」「彼方」「矢庭」
でなくてはならない、と。ちなみに、この文章が
書かれているのは、大正七年のことなので、それなりに
時代が反映されている。今は「矢庭」と漢字で書く方が、
ずっと混乱を招くだろう。「彼方」は「かなた」としか、
読まれないのではないだろうか。
谷崎はさらに、「ねまき」は「寝間着」であって、「寝衣」ではなく、
こう書いたら「しんい」と発音しなければならない、
とも主張する。今は「ねまき」という言葉はあまり使わないが、
あえて漢字にすると「寝巻」が一般的か。「しんい」なんて
言われて、寝るときに着る服を思い浮かべる人は皆無に近いかも。

大正七年と言えば、今から百年くらい前のことになる。
「日本語は移り変わりの激しい言語ですね」とは、
知人のチェコ人の言葉で、批判的なニュアンスがあった。
谷崎の文章も、今読むと古色蒼然、という感がある。
だが、それもまた味わい深く思われる。
谷崎が批判的に上げた例も、なかなか興味深く、
短歌にも使ってみよう、と思ってしまった。
これは、歌を詠む人間の、病のようなものかもしれない。
nice!(0)  コメント(0) 

鱈・うだつ・かっこう [言葉]

末広恭雄『魚の博物事典』をぱらぱらと読んでいたら、
「鱈」の項で目が点になった。鱈は雑食性の大食いで、
胃の中を調べると、時に百種類もの魚介類がみつかることも
あるのだという。そのことからたくさん食べることを
「鱈腹食う」というのだとか。ええ、そうだったのか。

「たら」という言葉は、「たっぷり」とか「(満ち)足りる」
とかいう言葉を想像させるし、また「たらたら」、つまり
途切れることなく、という意味のオノマトペにも通じるような
語感があって、そのあたりから来ているように想像していた。
語源を知らないままに使っている言葉って結構ある。

たとえば、「うだつが上がらない」という言い回し。
「うだつが上がる」とはほとんど言わないが、その
うだつが、建築にまつわる言葉と知ったのは、十年くらい前、
ベトナムの日本人街について書かれた本を読んだときだった、
と記憶する。うだつは、屋根の上に、さらに一段高く上げた
小屋根、のようなものらしい。ベトナムの日本人街には、
日本では見られなくなっているこのうだつをつけた
家が残っているのだとか。富裕層しかつけられなかったので、
「うだつが上がらない」という慣用句が生まれたらしい。

また、十数年も前になるけれど、相棒が
「閑古鳥が鳴く、っていうけれど、どう発音する?
閑古、鳥が鳴く、じゃないの。暇で静かで、鳥の鳴き声
まで、聴こえてくる、っていう意味じゃない?」
と尋ねてきた。ああ、どうなんだろう。よく使うけれど、
意味を突き詰めて考えたことなかったなあ、と
改めて辞書を引いてみた。閑古鳥はかっこうどりが
訛って生まれた言葉らしい。
実態を離れ、言葉は言葉としての命を得て、生き延びていく、
そんな気がする。

  見たこともないこと口に子を叱るたとえばイタチごっこするイタチ
                   関野裕之『柘榴を食らえ』
nice!(1)  コメント(0) 

固有名詞・続 [言葉]

先回の「固有名詞」をアップした直後に、
自分の犯していた大きなミスを思い出した!
十数年前になるが、これもまた、「塔」大会でのこと。
当時は、出版された会員の第一歌集について、
討論する企画も、大会のプログラムに織り込まれていた。

その年の大会では会員が二人一組になり、
三冊の第一歌集を対話形式で批評するという形式で、
二組に分かれて六冊の歌集を取り上げた。
評者として私も選ばれ、Gさんと組んで行うことになった。

Gさんとはファックスで連絡を取り合い、
レジメは私が作って、会場に持ち込むということに決めていた。
最終稿はGさんにファックスで送り、了承をもらっている。
さらに大会会場で、少し時間を取り、最終的な詰めも行った。

そうして、臨んだにも関わらず・・・、ああ、何てこと!
私は評者の欄の、Gさんの名前を誤記していたのである!

Gさんは「塔」に長く所属されている男性で、十歳くらい年上。
「塔」誌上でよく名前を拝見していたのだけれど、
私の相棒の古くからの友人に、Gさんと同姓の男性がいて、
下の名前はGさんと同じ二文字の漢字。読みは違うが、
やや雰囲気が似た名前である。それで、相棒の友人の
名前の方の字を使ってしまったのだった。

それ以上にショックだったのは、私が会場にレジメを配布し、
真っ先に永田和宏さんが「あ、間違っているぞ!」
と叫ばれるまで、Gさんに指摘されなかったことである。

私は震え上がった。Gさんは見た目、穏やかな紳士だが、
内心は激怒しておられ、私に公衆の面前で恥を
かくように、との罰を与えられたのだ・・・、と思った。

壇上に上がり、私はこれから話すべきことがすべて
頭からぶっ飛んでしまいそうな衝撃に耐えながら、
Gさんに向かって、一言言ってしまった。
「すみません、お名前を間違えてしまって。でも、
どうして事前に指摘してくださらなかったのですか」
すると、Gさんは
「いや、こちらの名前もまた、いいなあ、と思って」

ああ、彼の方が(もちろんだが)、何枚も上手だったのだ!
私は彼のこの一言で立ち直り、なんとかその後の
討論を乗り切ることができたのだった。

私は帰宅してからお詫びの手紙を書いたのだけれど。
Gさんからは、かえってご丁寧は「お礼状」を頂いてしまった。

でも、このミスは、その後も精神的に尾を引き・・・。
相棒の友人の方のGさんからの年賀状を目にしてさえ、
ゆううつになるような状態がしばらく続いてしまった・・・。
恐るべし、固有名詞。


nice!(0)  コメント(0) 

固有名詞 [言葉]

短歌結社「塔」が、会員百名弱、誌面も数十ページと、
こじんまりとしていたころのことであるが。

毎月の校正を担当されていた関西在住のKさんとは、
入会の時から電話でやり取りし、おおらかで明るい
性格の方、と思っていたのだけれど。
たまたま関西に出向く用事があり、お会いする機会が
あったのだが、意外に沈んだ表情をしておられた。
直近の「塔」誌に大きな校正ミスがみつかった、という。

校正ミスなんて、よくあることじゃないですか。
と慰めようとすると
「他ならいいの。でも、作者の名前を間違えたのよ」
ああ~、それは・・・。落ち込まれるはず、と
直ぐに納得してしまった私。固有名詞は、特別だと・・・。

先日、塔の大会で、古くからの会員の人と会い、
話をする機会があったのだけれど、そのとき
私(オカベ)を「タ〇べさん」と間違って呼ばれた方がいた。
同年代の人なので、まさか認知症ではないと思うが、
ちょっと(かなり、かも)ショックだった。

自分のことで言えば、最近『郷土菓子のうた』という
本を上梓したのだが、校正の段階で、とにかく
短歌作品の間違いは絶対にいけない、と念には念を
入れていたのだが・・。途中で相棒に
「それと、固有名詞にも気をつけなくちゃだめだよ」
と指摘されてしまった。あ、それは少々、甘くなっているかも。

と、今度は、お菓子の名前、菓子舗の名前にも目を配る。
すると、ありました、ありました。
漢字が似ていることによる取り違え、
転換ミス、漢数字と数字の取り違え、などなど。
固有名詞は、似ているからまあいいか、ではすまない。
それは絶対的なものだから。

でも、あまりにも大変だったので、毎日の新聞、
ニュースなど編成するひとはどんなにしんどいだろう、
と思えるようになった。時々ニュースの途中で、
「字幕のお名前の字が間違っていました」
とお詫びが入ることがある。まあ、いいよ、
これから気を付けたら。と、(言葉には出さないが)
胸の中で返事している。
nice!(0)  コメント(0) 

青と蒼 [言葉]

一昨日に行われた横浜歌会は、
初秋の歌会らしく、夏の終りを詠んだ歌が多かった。

この時期を表す色彩、というわけでもなかったのだろうが、
青色系の言葉が多用され、15名参加・30首の詠草のうち、
あお、青、青、蒼、blue、と五回も登場、歌評の場面でも、
「青と蒼の違いは?」「青をblueとする根拠は?効果は?」
といった論議に発展した。英語に強い若手の参加もあり、
なかなか有意義、かつ楽しい応酬を聞くことができた。

青と蒼は特にきになるところで、帰宅してから
『字通』を調べてみた。

青については、『説文』より「東方の色なり。・・丹青の信、
信必ず然り」とあることが引用され「丹青は鉱物質のもので
変色せず、ゆえに「丹青の信」という、と説明されている。
つまりは、鉱物質的な、曇りのない青色を指すとみていい。

一方の「蒼」だが、こちらは「艸の色なり、草木の繁茂する
深い青さ。水には滄を用いる」とある。また淡い青色には
葱を用いるのだという。

というところから読み取るに、「青」は普遍的な青色、「蒼」には、
命の営みが込められた、複雑な色合いの青、とも言えそうである。

歌会で皆が話し合うのを聞きながら、
「蒼」という言葉を初めて意識した時のことを思い出した。
それは山口百恵が自伝を発表した時、その題が『蒼い時』で、
確かこの「蒼」を選んだのは血の色を意識したからだ、と
いうようなことをどこかで聞いた(あるいは読んだ)記憶が
あったからである。この日の歌会の「蒼」を詠みこんだ歌も、
なかなか魅力的な作品だった。
nice!(0)  コメント(0)