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再びルビについて [言葉]

谷崎潤一郎の短歌を調べようと、全集をめくっていたら、
「梅雨の書斎から」というエッセイに目が留まった。
ルビに関する内容だったからである。谷崎は
雑誌に新聞記者が投稿した「新聞振り仮名廃止論」に
同調する形で自説を展開している。新聞のように
多くの人たちが一時に目を通す文章には、まさに
読みやすさ、理解しやすさが第一に尊重されるべきなので、
この説には基本的には同感なのであるが。

面白いと思ったのは、谷崎が続いてあげている例である。
語源を考えず、意味から漢字をあてはめて使用することに
異議を唱え、例として「可(い)けない」
「家(うち)」、「貴方、貴女(あなた)」「急遽(やには)」
などを挙げている。
それぞれの漢字としては「行けない」「内」「彼方」「矢庭」
でなくてはならない、と。ちなみに、この文章が
書かれているのは、大正七年のことなので、それなりに
時代が反映されている。今は「矢庭」と漢字で書く方が、
ずっと混乱を招くだろう。「彼方」は「かなた」としか、
読まれないのではないだろうか。
谷崎はさらに、「ねまき」は「寝間着」であって、「寝衣」ではなく、
こう書いたら「しんい」と発音しなければならない、
とも主張する。今は「ねまき」という言葉はあまり使わないが、
あえて漢字にすると「寝巻」が一般的か。「しんい」なんて
言われて、寝るときに着る服を思い浮かべる人は皆無に近いかも。

大正七年と言えば、今から百年くらい前のことになる。
「日本語は移り変わりの激しい言語ですね」とは、
知人のチェコ人の言葉で、批判的なニュアンスがあった。
谷崎の文章も、今読むと古色蒼然、という感がある。
だが、それもまた味わい深く思われる。
谷崎が批判的に上げた例も、なかなか興味深く、
短歌にも使ってみよう、と思ってしまった。
これは、歌を詠む人間の、病のようなものかもしれない。
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鱈・うだつ・かっこう [言葉]

末広恭雄『魚の博物事典』をぱらぱらと読んでいたら、
「鱈」の項で目が点になった。鱈は雑食性の大食いで、
胃の中を調べると、時に百種類もの魚介類がみつかることも
あるのだという。そのことからたくさん食べることを
「鱈腹食う」というのだとか。ええ、そうだったのか。

「たら」という言葉は、「たっぷり」とか「(満ち)足りる」
とかいう言葉を想像させるし、また「たらたら」、つまり
途切れることなく、という意味のオノマトペにも通じるような
語感があって、そのあたりから来ているように想像していた。
語源を知らないままに使っている言葉って結構ある。

たとえば、「うだつが上がらない」という言い回し。
「うだつが上がる」とはほとんど言わないが、その
うだつが、建築にまつわる言葉と知ったのは、十年くらい前、
ベトナムの日本人街について書かれた本を読んだときだった、
と記憶する。うだつは、屋根の上に、さらに一段高く上げた
小屋根、のようなものらしい。ベトナムの日本人街には、
日本では見られなくなっているこのうだつをつけた
家が残っているのだとか。富裕層しかつけられなかったので、
「うだつが上がらない」という慣用句が生まれたらしい。

また、十数年も前になるけれど、相棒が
「閑古鳥が鳴く、っていうけれど、どう発音する?
閑古、鳥が鳴く、じゃないの。暇で静かで、鳥の鳴き声
まで、聴こえてくる、っていう意味じゃない?」
と尋ねてきた。ああ、どうなんだろう。よく使うけれど、
意味を突き詰めて考えたことなかったなあ、と
改めて辞書を引いてみた。閑古鳥はかっこうどりが
訛って生まれた言葉らしい。
実態を離れ、言葉は言葉としての命を得て、生き延びていく、
そんな気がする。

  見たこともないこと口に子を叱るたとえばイタチごっこするイタチ
                   関野裕之『柘榴を食らえ』
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固有名詞・続 [言葉]

先回の「固有名詞」をアップした直後に、
自分の犯していた大きなミスを思い出した!
十数年前になるが、これもまた、「塔」大会でのこと。
当時は、出版された会員の第一歌集について、
討論する企画も、大会のプログラムに織り込まれていた。

その年の大会では会員が二人一組になり、
三冊の第一歌集を対話形式で批評するという形式で、
二組に分かれて六冊の歌集を取り上げた。
評者として私も選ばれ、Gさんと組んで行うことになった。

Gさんとはファックスで連絡を取り合い、
レジメは私が作って、会場に持ち込むということに決めていた。
最終稿はGさんにファックスで送り、了承をもらっている。
さらに大会会場で、少し時間を取り、最終的な詰めも行った。

そうして、臨んだにも関わらず・・・、ああ、何てこと!
私は評者の欄の、Gさんの名前を誤記していたのである!

Gさんは「塔」に長く所属されている男性で、十歳くらい年上。
「塔」誌上でよく名前を拝見していたのだけれど、
私の相棒の古くからの友人に、Gさんと同姓の男性がいて、
下の名前はGさんと同じ二文字の漢字。読みは違うが、
やや雰囲気が似た名前である。それで、相棒の友人の
名前の方の字を使ってしまったのだった。

それ以上にショックだったのは、私が会場にレジメを配布し、
真っ先に永田和宏さんが「あ、間違っているぞ!」
と叫ばれるまで、Gさんに指摘されなかったことである。

私は震え上がった。Gさんは見た目、穏やかな紳士だが、
内心は激怒しておられ、私に公衆の面前で恥を
かくように、との罰を与えられたのだ・・・、と思った。

壇上に上がり、私はこれから話すべきことがすべて
頭からぶっ飛んでしまいそうな衝撃に耐えながら、
Gさんに向かって、一言言ってしまった。
「すみません、お名前を間違えてしまって。でも、
どうして事前に指摘してくださらなかったのですか」
すると、Gさんは
「いや、こちらの名前もまた、いいなあ、と思って」

ああ、彼の方が(もちろんだが)、何枚も上手だったのだ!
私は彼のこの一言で立ち直り、なんとかその後の
討論を乗り切ることができたのだった。

私は帰宅してからお詫びの手紙を書いたのだけれど。
Gさんからは、かえってご丁寧は「お礼状」を頂いてしまった。

でも、このミスは、その後も精神的に尾を引き・・・。
相棒の友人の方のGさんからの年賀状を目にしてさえ、
ゆううつになるような状態がしばらく続いてしまった・・・。
恐るべし、固有名詞。


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固有名詞 [言葉]

短歌結社「塔」が、会員百名弱、誌面も数十ページと、
こじんまりとしていたころのことであるが。

毎月の校正を担当されていた関西在住のKさんとは、
入会の時から電話でやり取りし、おおらかで明るい
性格の方、と思っていたのだけれど。
たまたま関西に出向く用事があり、お会いする機会が
あったのだが、意外に沈んだ表情をしておられた。
直近の「塔」誌に大きな校正ミスがみつかった、という。

校正ミスなんて、よくあることじゃないですか。
と慰めようとすると
「他ならいいの。でも、作者の名前を間違えたのよ」
ああ~、それは・・・。落ち込まれるはず、と
直ぐに納得してしまった私。固有名詞は、特別だと・・・。

先日、塔の大会で、古くからの会員の人と会い、
話をする機会があったのだけれど、そのとき
私(オカベ)を「タ〇べさん」と間違って呼ばれた方がいた。
同年代の人なので、まさか認知症ではないと思うが、
ちょっと(かなり、かも)ショックだった。

自分のことで言えば、最近『郷土菓子のうた』という
本を上梓したのだが、校正の段階で、とにかく
短歌作品の間違いは絶対にいけない、と念には念を
入れていたのだが・・。途中で相棒に
「それと、固有名詞にも気をつけなくちゃだめだよ」
と指摘されてしまった。あ、それは少々、甘くなっているかも。

と、今度は、お菓子の名前、菓子舗の名前にも目を配る。
すると、ありました、ありました。
漢字が似ていることによる取り違え、
転換ミス、漢数字と数字の取り違え、などなど。
固有名詞は、似ているからまあいいか、ではすまない。
それは絶対的なものだから。

でも、あまりにも大変だったので、毎日の新聞、
ニュースなど編成するひとはどんなにしんどいだろう、
と思えるようになった。時々ニュースの途中で、
「字幕のお名前の字が間違っていました」
とお詫びが入ることがある。まあ、いいよ、
これから気を付けたら。と、(言葉には出さないが)
胸の中で返事している。
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青と蒼 [言葉]

一昨日に行われた横浜歌会は、
初秋の歌会らしく、夏の終りを詠んだ歌が多かった。

この時期を表す色彩、というわけでもなかったのだろうが、
青色系の言葉が多用され、15名参加・30首の詠草のうち、
あお、青、青、蒼、blue、と五回も登場、歌評の場面でも、
「青と蒼の違いは?」「青をblueとする根拠は?効果は?」
といった論議に発展した。英語に強い若手の参加もあり、
なかなか有意義、かつ楽しい応酬を聞くことができた。

青と蒼は特にきになるところで、帰宅してから
『字通』を調べてみた。

青については、『説文』より「東方の色なり。・・丹青の信、
信必ず然り」とあることが引用され「丹青は鉱物質のもので
変色せず、ゆえに「丹青の信」という、と説明されている。
つまりは、鉱物質的な、曇りのない青色を指すとみていい。

一方の「蒼」だが、こちらは「艸の色なり、草木の繁茂する
深い青さ。水には滄を用いる」とある。また淡い青色には
葱を用いるのだという。

というところから読み取るに、「青」は普遍的な青色、「蒼」には、
命の営みが込められた、複雑な色合いの青、とも言えそうである。

歌会で皆が話し合うのを聞きながら、
「蒼」という言葉を初めて意識した時のことを思い出した。
それは山口百恵が自伝を発表した時、その題が『蒼い時』で、
確かこの「蒼」を選んだのは血の色を意識したからだ、と
いうようなことをどこかで聞いた(あるいは読んだ)記憶が
あったからである。この日の歌会の「蒼」を詠みこんだ歌も、
なかなか魅力的な作品だった。
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漢字の国の子供 [言葉]

先日、夫の知人一家が我が家を訪れてきた。
中国・福建省出身の夫婦で、一時、日本で生活していて、
その時に生まれた二人の男児(六歳、二歳)がいる。
二人とも愛らしく、また、両親から愛されている様子が
よくわかって、ほほえましかったのだけれど。

お茶とお菓子、果物などを一緒に食べ、しばらく
すると、母親の方が上の子に紙と鉛筆を持たせる。
見ていると、漢字の書き取りをさせようとしているのである。

初めてきた家で、しかもほんの三時間半くらいの滞在。
庭というほどの面積でもないが、外に出たり、
また、家のゲームでも持ち出して、一緒に遊ぼうか、
と思っていたのに。しかもその子は直前ではあるが、
また小学校にも入学していないのである。

あきれてみていると、母親に褒められるのがうれしいのか、
男の子は難しい漢字を何度もノートに書き続けている。
同じ漢字を十数回、書きながらおぼえているようだ。

中国ではご存知のように簡体字が使われているけれど、
その「簡体」化、がアンバランスで、「广」のように、
もとの字が何だったのか、判別できないほど簡略された字も
ある一方、ものすごく画数が多くて厄介な字が、
小学生でも頻繁に使用する文字として、大量にある。

書き取りの練習をする子供を横で見ながら、
複雑な思いがわいてきた。こんなに難しい字を
山ほど覚えこまなければならない国に生まれてしまい、
しかも、学歴社会で、揉まれ続けるこの子の
将来につい暗澹とした気分になったのである。

英語圏なら、覚えるべき字はたったの二十数個。
スペルはややこしいものが多いので、単純には言えないものの、
文字を覚える労力は圧倒的低いはず。
その分、豊かに物事を考え、想像する余地も
生まれてくるのではないのだろうか、などと、
よけいなことまで考えてしまった・・・。
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一かけ二かけて [言葉]

ずっと以前だけれど、相棒と子供の頃に歌った
わらべ歌の話をしていて、私が覚えていたものの
一つとして「一かけ二かけて」の歌を歌って聞かせた
ことがある。相棒は即座に、聞いたこともない、と言う。
私は山形県南部の育ち、相棒は関西育ち。
その歌は覚えている限り、次のようなもの。

 いちかけ にかけて さんかけて
 しかけて ごかけて はしをかけ
 はしのらんかん てをこしに
 はるかむこうを ながめれば

 じゅうしち はちのねえさんが
 はなと せんこうをてにもって
 これこれ ねえさんどこいくの

 わたしはきゅうしゅう かごしまの
 さいごう たかもり むすめです
 せっぷくなされた ちちおやの
 おはかまいりに まいります

 おはかのまえで てをあわせ
 なむあみだぶつと おがんだら
 おはかの かげから ゆうれいが
 ふうわり ふわりと (じゃんけん、ぽん!)

と、つまりはじゃんけんをするための
長い前段のような歌なのだった。

相棒は、「山形なのに、なぜ西郷隆盛が出てくるの?
白虎隊くらいならわかるけど」
と不思議がる。私も子供の頃、
ぼんやりと、いったいなぜなんだろう、とは
思い、不思議な気持ちはしていたが・・・。

東京の人たちも、だいたいこれとよく似た
歌をうたっていたらしい。東国に伝わっていて、
関西ではあまり知られていないらしいのも不思議だ。

ちなみにこのわらべ歌をうたうときは、二、三人で
向き合い、手をつなぎ合って、せっせっせ、と始め、
まず自分の両手をたたき、次に隣の相手と、交互に
手を打ち合う。そんな素朴なことが楽しかった。
今の子のように、スマホでゲームを楽しむ子には、
アホに見えるかも。でもあの時の、友達の手のぬくもりが
懐かしく思えたりもするのである。



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日本語が読めない!? [言葉]

一年半ほど滞在したアメリカから帰国し、
初めて日本の新聞を読んだ時、焦った。
「う、日本語が読めない!?」
ところどころで意味不明に陥り、何度も
前に戻って読み返す、ということになった。
滞米中、ほとんど日本語の文章を読んでいなかったので、
読解力が明らかに落ちていた。

言い訳に聞こえるかもしれないが、それは日本語自体が、
既知とみなされる情報に頼ったまま、部分、部分が省略されて
発せられる、かなりあいまいな言語であるからだ、
と気が付いたのである。

そんな日本語も、帰国数日でたちまち慣れたのだけれど、
今も時々、文章を読んでいて「あ、どういうこと?」と
疑問がわき、同時にあの帰国時の焦りを思い出してしまう。

今朝も、朝日新聞朝刊の25面、「美談演出『誉れの子』」と
いう見出しのついている記事を読んでいた時に、その時の
焦りがフラッシュバックする感覚を味わった。これは、
戦時中、戦死した父を持つ少年が、美談に仕立てられ、
報道された経緯を伝える記事なのだが、

例えば
  《おらあ、お父(と)をおぶって帰ってくる》・・・・写真には
   こんな言葉が添えられた。しかし、八巻さんに話した記憶はない。

私はまずここで躓いた。「八巻さんという名の相手に、こう告げた記憶が、
発語主体にはない」というようにまず読んでしまった。
はて、八巻さんって、誰のこと? と疑問がわき、記事の冒頭を
読み返すことになった。ここは「こう話した記憶は、八巻さん自身には
ない」とすべきところだったのだ。

さらにその少し後に出てくる

  「お国のために活躍し、誇りだった」という父を恨む気持ちも
   戦後になって芽生えた。

というところも、話の流れをきちんと掴んでいないと理解しづらい。
「」内の言葉を本人が今発しているように、耳で捉えてしまうと、
後の文章がちぐはぐに思えてしまうのである。
ここは、添削しようとしても、難しかった。本人がどう思ってきたか、
もう少し聞き取りしないと表現できない、微妙な感覚が
あるからである。「戦死してしまった父を恨む気持ちも、戦後に
ようやく芽生えるようになった」あたりが、穏当かもしれない。

新聞は多くの人が同時に目に通すメディアである。
読みやすくわかりやすい表現がもっと求められていい。


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私のうた(その10) [言葉]

ロバート・マキャモンという作家が好きだ。
(特に初期のホラー作品の方ではなく、中期以降のもの)
惹かれる理由は、彼が主に舞台としている地が
アメリカの南部、それもかなりの田舎町であることが
大きいように思う。

私は子供の頃、東北の小さな町で育っているのだが、
マキャモンの描く世界に、子供の頃に経験したことが
ダブって見えてくるようなことが多々あるのである。
よくわからなかった当時の田舎町の内情というか、
本質が、マキャモンの小説を通して理解できる、
というような経験もしてしまう。

もちろん、小説ゆえの、文学的な誇張もあるから、
必ずしも「真理の発見」とはいかず、往々にして
過去の「よくわからなかった体験」を、
自分なりに想像し、それなりの決着、あるいは展開を
してしまう、ということになるのだけれど。
一冊の小説を読みながら、私はもうひとつ、
私だけの小説を編んでいるような気分になる・・・。

       ****
  はーもにか・しょうねん     おかべふみ

 てつどうの せんろにそって やってくる
 ぶおん ぶおん ぶおっ ぶおっ
 はーもにかの おと

 だぶだぶすぼんに ふるいくつ
 はねられたときの きずあとを
 ぼうずあたまに つけたまま 

 きしゃがすき きてきがすきで
 ぶおん しゃっか しゃっか
 なんども れっしゃを とめたけど

 きょうも はーもにか ふきながら
 あのこがいくよ まくらぎ こえて
 ぶおん ぶおん ぶん しゃっか しゃっか

 だだだだ だだん だだだん だん
 びしびし びしん ぽーぉおおおおー
 あのひはとうとう まにあわなかった

 しゃりんの きしみ きえたあと
 ゆうやけぞらへ ひびいてる
 ぼうずあたまの はーもにか

 (「私のうた」の項、とりあえず、これで終わりです)

私のうた(その9) [言葉]

『どうぶつがいっぱい』という絵本の翻訳に
携わったのはもう、二十年も前のことになってしまった。
オーストラリアの作家による動物百科的な本で、
南半球の動物がたくさん登場し、
当時はまだ日本にさほど知られていないものも多く、
訳出するのに難儀したことが昨日のことのようだ。

南半球には、本当に変わった動物が多く、
かつて訪れたシドニーの動物園では、
驚嘆しているいとまもないほど・・・。

様々の有袋類、野生の犬ディンゴ、不思議な蝙蝠、
カモノハシ、美しくも奇妙な生態を持つ鳥たち・・・。

キウイのコーナーは、真っ暗だった。
暗がりの中に、キウイの実にそっくりの
小鳥が、じっとこちらを伺っているようだった。

     ****
  キウイ     おかべふみ

 それはことり いいえ それはかじつ
 とおい みなみはんきゅうの
 しずかな らくえんにうまれた

 くらやみでしか いきられず
 ことりは たまごがたの みになった
  
 みなみのたいりくをぬけて 
 とうようの とあるむらの のきに
 しどけなく そのみをたらす

 ぶすいな けぶかい かわのしたには
 うつくしい ひすいいろの かにく

 そのつめたい ひときれをほおばり
 やみのなかに いまもひそむ
 ちいさな ことりを おもう
 はるかな はおとの まぼろしをきく

 ちきゅうはふしぎ
 いきていることは ふしぎ