So-net無料ブログ作成
検索選択

ハワイというところ [旅]

安倍首相が真珠湾を訪問。慰霊の献花をし、黙祷をささげたことが
ニュースで流れている。少し遅かったけれど、これは良いことだった
と思った。
私自身、十年余り前にハワイを訪れたこと、そして現地の
一日観光ツアーに参加して真珠湾を訪れたことなどを思い出した。
参加していたのはほとんどがアメリカ本土からの観光客。
日本人は私と相棒の二人だけだったので、少々気まずかったのだけれど。
アメリカ人たちと一緒に真珠湾を見て、そして彼らと
同じ視線で、歴史を振り返るひと時を持てたことは貴重だった。

でもハワイにでかける日本人のうち、どれだけ真珠湾のことを
考えたり、訪れたりするのだろう。
休暇を楽しむため、リゾート地として出かけるのだろうし
嫌な歴史をわざわざ紐解くようなことはしたくないのかもしれない。
海辺で戯れて、観光して帰って来るだけなのではないか。

正直なところ、私にはハワイがなぜ
リゾート地としてこんなに人気を博しているのか、
よくわからない。

避寒地として考えてみても、十一月下旬から
三月中旬くらいまではけっこう肌寒くて
水泳には不向きである。

物価はもちろん高い。
ショーなども小粒なものが多くて、つまらない。
食事も、アメリカ的な大味を引きずっていて、
特にお勧め、という食べ物も少ない。

数日間オアフ島にいくくらいなら、もっと
条件の良いところがあるのではないか、と思えてしまう。
でもこの年末も、日本人の渡航者が一番多いのは
ハワイなのだそうだ。ふ~む、不思議じゃ。

避寒 [旅]

十年近く前、真冬に沖縄に出かけたことがある。
製糖地について調べたり、文章を書いたりしている私は、
沖縄の製糖についても知りたくて、製糖時期にあたる一月に、
本島南部にある製糖工場を訪れる旅を企画したのだった。

ついでに南部に宿を取ろうと思い、近くのホテルを当たったところ、
冬季間は休業中とのこと。その近くに民宿があると知り、ダメモトで
問い合わせたところ、四室ある一室がたまたま空いている、という。
そこに予約して出かけることにしたのだが、ホテルも休業中の冬、
いったいどんな人が宿泊しているんだろう、と不思議だった。

はたして、私以外の宿泊者は、三人とも高齢の男性たちだった。
彼らは関東関西からの常連客で、一月から二月にかけての
二か月間ほど、毎年避寒のためにやってきていたのだった。

一人はまだ六十代の男性で、ゴルフを楽しむことも兼ねているのだとか。
ほかの二人は、毎日近くを散歩するくらいで新聞を読んだり、
テレビを見たりと、悠々自適、というかかなり暇そう、というか。
那覇からはかなり遠いし、もともと海水浴客向けの宿で、
まわりにお店もほとんどない。
私は、サトウキビ畑を見て歩いていたので、ここは好都合だったが、
長期滞在するには、刺激がなさすぎるような・・・。
当時はなんだかなあ、と彼らの行動が理解できなかったが。

十年たってみると、けっこうわかることのように思えてきた。
寒さで、行動が鈍くなっている自分を意識するようになったから。
避寒を兼ねて、どこか温かい町で、静かに暮らす二か月が
あってもいいかな。具体的にはまだ何も考えていないのだけれど。

シンガポール インド人街 [旅]

シンガポールに出かけたら、必ず行きたいと思っていたのが
インド人街。かつてはタクシーを使ったり、ラッフルズホテル近くに
宿泊したときは、歩いて出かけた記憶もある。
今はMRTの駅ができたので、楽ちんに行ける。

それでも最初は歩いてみようと思った。サンテックの
ショッピングセンターの中を北の端まで歩き、
そのあと西側に歩くとアラブ人街にたどりつく。
そこからほんの十分ほどでインド人街である。

地図で見た通りに歩こうとしたが、
結構苦労してしまった。以前は簡単に横切れた道が
車道が広くなり、横断歩道がまったくない、というところが多く。
見えているのに、なかなかたどりつけなかったりして。
それでも、アラブ人街でモスクを観た後、インド人街へ。
アラブ人街は明らかに縮小している感がある。

人口(国民の一割弱)の割に、勢いを感じるのがインド人街。
インド的なものが巷にあふれている。
行き交うのは明らかにインド的風貌の人々だし。
道路にはみ出しながら売られているリースは
例の黄色と白の(なんて花だったかな?)特有のやつだし。
カレーの匂いがぷんぷんしてくるし。

ちょうどお昼だったので、見つけたレストランへ。
シンガポールのインド人たちは主に南部から
異動してきたタミール系の人たちなので、
インド料理もまた、タミール系のものである。
ナンを置いている店はほとんどなく、
プーリと呼ばれる、ぱりぱりした薄いパンが主食。
後はぱさぱさのインド米。でもこれがさらっとした
カレーに良く合う。スパイスが効いていて抜群に旨い。

リトルインディアのMRTの駅前がテッカという名の市場。
一階は生鮮食料品と観物のお店がずらりと並び、
二階は衣料品売り場なんだけれど。
二階で相棒のシャツを買おうと出かけてみると、なんと
衣料売り場とは、女性用衣料売り場、なのだった。

広い売り場に小さなテナントがギッシリと並び、
行けども、行けどもキラキラ刺繍ミラーワークのついた
パンジャビースーツ風の女性用の服ばかり。
15ドルから29ドルくらいまでの、いかにもみかけだけの安っぽそうな服が
これでもか、これでもか、と言うばかりに並び・・・。
ああ、これぞ、インド世界だ、とため息が出た。

シンガポール 食べ物 [旅]

中華系、マレー系、インド系、の人々が混住する
シンガポールは、食文化の豊かな国でもある。
ホテルの朝食を断ってしまった私だったが、
周辺には朝早くから店を開けている食べ物屋さんが
多々あって、ちっとも困らなかった。

シンガポールの朝食の一つの定番が
カヤトースト、と呼ばれる一種のサンドイッチ。
カヤというのは、ココナツミルクに砂糖と卵を混ぜ、
パンダンの葉で香りづけした一種のジャムである。
カヤトーストはこのジャムとバターをパンにはさんで、
焼いてある、ホットサンドイッチのこと。

一番最初の朝食として、ホテルのすぐそばで
七時から開いているレストランに出かけて
カヤトーストの朝食セットを食べた。
このセットにはゆで卵が二個もついていた!
でも、卵自体が小さ目な上、とろりとした半熟に
仕上がっていて、食べやすかった。
カヤトーストは、食事には甘すぎたけれど。

周囲を見渡すと、出勤前らしいビジネスマンウーマンがいっぱい。
朝から、麺類や揚げ物とご飯などを食べているのにも
ちょっと驚いた。いずれも、4ドルから6ドルくらいで、お手軽な値段。
ほかにもパン屋のイートインで朝食を摂っている人、
出社してから食べるんだろうか、サンドイッチを買ってそのまま
そそくさと出ていく人も多い。
ちなみにシンガポールでは、自宅で炊事する人はほとんどいないのだとか。

シンガポール 人びと [旅]

シンガポールの民族的な構成についてみてみると、
華人と称される中華系が74%強、マレー人が13%強、
インド系が9%強、ということだった。
公用語とされているのが四つもあって、英語、マレー語、
中国語(マンダリン)、タミール語となっているんだけれども,
少々、事情は込み入っている。

シンガポールにやってきた中国人は、福建人、広東人、
そして海南省の人々が主だったらしい。でもそれぞれ
方言が強く、互いに理解しあえない。それで普通語(マンダリン)が
話されるようになったけれど、そこはかなりシンガポール化して
しまって、独特の表現や発音があり、今ではシンダリンと呼ばれるのだとか。
英語もまた然り、でシングリッシュと呼ばれるのだそうである。

シンガポールに出かける前に、少し予備知識を仕入れようと思って、
本棚を漁り、『シンガポールの奇跡』(中公新書)があったので
読んでいた。これはなんと、70年代半ばにシンガポール大学に
教員として招聘された日本人が書いた本なので、内容は相当古いが、
シンガポールという国の初期の(ちなみに独立は65年)の葛藤が
ひしひしと伝わってくる、なかなか良い本である。

アジアの都市国家として、通信や貿易を中心とした発展をめざし、
教育にいち早く、英語を取り入れていった過程も描かれている。
その一方で、華人としてのアイデンテティが失われるのでは、
という強い憂慮もあったことも・・・。
だが、この初期の決断があったればこその、
現在のシンガポールの繁栄である、といえるだろう。

人々の、訛りの強く残る英語を聴きながら、言葉とはまた、
国そのものかもしれないなあ、と感慨深い気持ちになった。


シンガポール 公共交通 [旅]

初めてシンガポールに出かけた1992年のときは、
宿泊していたホテルの前がバス通りになっていて、ここから
長々とバスに乗って、タイガーバームガーデンに出かけた記憶がある。
(ちなみに、ここは全くつまらない施設だった)。

現在のシンガポールはMRTが緻密にめぐらされていて、
とても便利になっている。バスにも併用できるEZカードという
スイカのようなカードもあって、これを使うと割引料金が適用になる。
(ただし、スイカとは異なり、最初の五ドルは返還されない)。
カードは各駅と、コンビニでも買える。また、コンビニの買い物にも使えるところがある。

タクシーも便利である。空港からマリーナベイのホテルまで、高速道に乗って
20分余りかかったが、料金は20ドル強、わずかに2000円弱というところ。
このタクシーの安さ、便利さは観光客には有難い。
おまけに、シンガポールではほとんど渋滞、ということがないのである。

これは政府の方針で、マイカーが増えるのを規制してあるから、らしい。
車の値段は日本の三倍近くするのだそうである。それに比較すると、
地下鉄やタクシーの料金はとても安上がり、ということになる。

見ていると、車の種類は、韓国車が比較的多い。
タクシーはほとんど韓国の現代(ヒュンデ)か、KIAである。
中心部では、アウディとか、ベンツとか、欧州の高級車も多い。
日本車は全体の三割から四割くらいのところだろうか。
まずトヨタ、日産、そしてホンダマツダが目につく。
どの車もピカピカ。シンガポールの中でも相当のお金持ちじゃないと
車は持てないのだから、それも当然だけれども。

シンガポール ホテル [旅]

シンガポールに初めて出かけたのは1992年の夏。
宿泊は、オーチャード通りにあったコックピットホテルである。
2004年に二度目に訪れたが、その時の宿泊はラッフルズホテル近くの
ビジネスホテル(名前は忘れてしまった)。
どちらも一泊数千円程度、当時の中級ホテルであった。

今回シンガポールへ旅を計画し始めたとき、
ホテルの値段がぐんと高くなっているのに驚いた。
念のため、以前に泊まったホテルのことも調べてみようと思ったが、
どちらももう、地図になかった。立て替えられて、高級ホテルになったか、
ショッピングセンター用地に買収されたのだろう。
それくらい、シンガポールの中心部は、高層化、高級化が進んでいた。

今回は、シティホール近くのマリーナ・マンダリンというホテルに
宿泊したのだが、ネット割引があったにかかわらず、前に泊まったホテルの四、五倍もした。
チェックインのとき、
「朝食をつけませんか? この時点で申し込まれると、
普通45ドルの朝食が、30ドルで提供できます」
と言われたんだけれど、即断った。
シンガポールドルは、今一ドルが80円台の後半である。
朝食には、ヨーグルトと一片のパン、そして飲み物さえあれば
十分な私。30ドルなんて、あまりに高すぎる!

でもこのホテルは交通の便が良いし(地下鉄エクスプラネード駅から徒歩二分)、
大きなショッピングセンター二つ(サンテックシティ、マリーナプラザ)と
地下でつながっていて、買い物にも便利なのである。

さらに、プール、スポーツジムなどが完備されている。
それは大きな魅力で、このホテルを選んだ大きな理由なのだったが。
結局プールを利用したのは、一日だけ。
それも30分ほどだけだった(泣)。
お金に余裕ができたころには、体は動きが悪くなるのだ・・・・・・・。

シンガポール [旅]

先週一週間、シンガポールへ出かけていた。
2004年に両親と共に行って以来12年ぶり、ということになる。

その間に、シンガポールは一段と高層化し、高級化し、
洋風化していた。きらびやかなショーウインドーが続き、
どこかで聞いたような店の名前ばかりが並ぶ。
スワロフスキーエルメスアルマーニブルガリ・・・。
さらに、H&Mやユニクロまで・・・。

ホテルと地下鉄、ショッピングセンターは、地下道で
複雑にリンクし合い、長い長い地下道に、
どこまで続くのか、とため息が出るほど
同じような店が並ぶ。そして人通りは絶え間なく・・・。
それでも時々、場違いな感じの、強い八角の香りがしたり、
蒸し饅頭の匂いが漂っていたり。

ああ、ここは被いようのない中華世界の一部なんだ、
と改めて気づかされる。
シンガポールがマレーシアから独立しておよそ五十年余り。
もともとは中華系の人々が活躍する貿易都市だった。
農業を中心とするマレー世界から
傍目にはちょっと勝手なんじゃない、と見える
良いとこ取り、の独立を果たしてしまった。

そんな不思議の都市国家、を訪ねた
旅の印象を綴ってみることにしよう。(この項、続きます)


鹿児島 [旅]

所属している短歌結社「塔」の、今年の全国大会
開催地は鹿児島、会場は城山観光ホテルで、
その名の通り、中心部から少し離れた城山の上にある。
シングルが少ないと聞いていたので、大会は素泊まりとして参加。
天文館(市の中心部)のビジネスホテルに前日から宿泊し、
ここから会場へ通う、という計画を立てる。

金曜日の昼に羽田を発ち、午後三時少し前にホテル到着。
夕飯まで、市内を散策することに。
四年ほど前に、鹿児島は一度訪れたことがあり、
天文館から照国通り近辺はもう知っているのだけれど。

城壁に沿って、以前お堀だった水辺付近を歩くのは、
まだまだ暑気の残る夕方でも、けっこう気持ちがいい。
堀水には驚くほど大きな鯉が泳いでいるし、
ハスの花が、これまた驚くほど大きな花を
掲げている一角もある。
鹿児島はいいところだな、としみじみと思う。

大会ではこれまでお会いしたことのなかった
沢山の人々にお会いできて(多くは九州の方々)
嬉しかった。声を掛けてくださった方々に感謝したい。
結社って、なんとも不思議な、独特のところだと、これまたしみじみ思う。
毎月、互いの歌を読んでいる、というだけで
こんなに身近に感じられるのだから。

パナマ運河 [旅]

アメリカから南へ下がる不定型な紐がねじれ、
とりわけ細くなって弧をなし、南アメリカのコロンビアと繋がる・・・。
中部アメリカの地形は、なかなか繊細で味があるなあ、
などとかねてから思っていたのだったが。

先日、南アメリカについて、ちょっと調べたいことがあり、
相棒の本棚をあさっていた私は、山口廣次著『パナマ運河』(中公新書。1980年刊)
をみつけ、読みはじめるなり、すっかり虜になってしまい、一気に読んでしまった。

パナマ運河の存在は日本でも知らない人がいないくらい有名だし、
地図で見る限り、この運河のある地点は、カリブ海と太平洋
紙一重で接しているようにさえ見えるけれども・・・。
この世紀の大事業には、想像を超える困難が付きまとったのだった。

様々な国籍を持つ人たちが、入れ替わり立ち代わりしながら
この事業に関わったことが、生き生きと綴られていて、
この書の副題が「その水に影を映した人びと」とあるのも、うなずける。

最初、パナマ運河建設に乗り出したのは、スエズ運河を手掛けて成功し、
その名を世界に知られていたフランスの外交官、レセップスである。
彼は太っ腹で話術に長けていて、多くの人を引き付ける、
不思議な魅力にあふれた人物であったらしい。

この書では冒頭から、パナマをめぐる人間臭い駆け引きから始まり、
やがては財政面、技術面の困難、そして恐ろしい黄熱病の蔓延から、
泥沼に沈みこむように建設が止まってしまい、
フランスがこの事業から撤退するところで、前半を終える。
レセップスがパナマ運河の事業に乗り出してから、すでに十数年経っていた。

持ち込まれた重機類にツタが分厚く絡み、錆が浮き出し・・・。
パナマ運河の完成の日は、ついにないのではないか、と思われたころ、
真打のように登場してくるのは、やはり、アメリカだった。
当時の圧倒的財力、軍事力、政治力を動員し、
当時コロンビア領だったパナマを一国として独立までさせて
(これは弾劾されるべき暴挙、ではないか)
まさに、遮二無二、といった体で完成させるのだが・・・。

これを裏から操ったフランス人がいた、というところが、
この書のひとつの(まさに)隠し味になっている。

よくできたミステリのように楽しい本だった。
ちなみに、著者は、元パナマ大使。
国際社会をめぐる、複雑な人間模様を知るには、
格好の立場にいた方だった。