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一かけ二かけて [言葉]

ずっと以前だけれど、相棒と子供の頃に歌った
わらべ歌の話をしていて、私が覚えていたものの
一つとして「一かけ二かけて」の歌を歌って聞かせた
ことがある。相棒は即座に、聞いたこともない、と言う。
私は山形県南部の育ち、相棒は関西育ち。
その歌は覚えている限り、次のようなもの。

 いちかけ にかけて さんかけて
 しかけて ごかけて はしをかけ
 はしのらんかん てをこしに
 はるかむこうを ながめれば

 じゅうしち はちのねえさんが
 はなと せんこうをてにもって
 これこれ ねえさんどこいくの

 わたしはきゅうしゅう かごしまの
 さいごう たかもり むすめです
 せっぷくなされた ちちおやの
 おはかまいりに まいります

 おはかのまえで てをあわせ
 なむあみだぶつと おがんだら
 おはかの かげから ゆうれいが
 ふうわり ふわりと (じゃんけん、ぽん!)

と、つまりはじゃんけんをするための
長い前段のような歌なのだった。

相棒は、「山形なのに、なぜ西郷隆盛が出てくるの?
白虎隊くらいならわかるけど」
と不思議がる。私も子供の頃、
ぼんやりと、いったいなぜなんだろう、とは
思い、不思議な気持ちはしていたが・・・。

東京の人たちも、だいたいこれとよく似た
歌をうたっていたらしい。東国に伝わっていて、
関西ではあまり知られていないらしいのも不思議だ。

ちなみにこのわらべ歌をうたうときは、二、三人で
向き合い、手をつなぎ合って、せっせっせ、と始め、
まず自分の両手をたたき、次に隣の相手と、交互に
手を打ち合う。そんな素朴なことが楽しかった。
今の子のように、スマホでゲームを楽しむ子には、
アホに見えるかも。でもあの時の、友達の手のぬくもりが
懐かしく思えたりもするのである。



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E・ディキンスン [文学]

岩波ホールで上映中の「静かなる情熱 エミリ・ディキン
スン」を観てきた。チケットは大学の先輩に贈られたもの。
その気持ちが有難く、早起きして、朝一(11時~)
の上映を観ることに。それでも混んでいて、平日なのに
七割くらいは完全に席が埋まっていた。

ディキンソンの詩を初めて読んだのは、中学三年のとき。
その頃は、田舎に住んでいたのだけれど、父の会社の
付属図書館に、なぜか、急に外国の訳詩集が沢山入り始め、
誰も借りないから、私は借り放題。
その中に、アメリカの詩集もあり、ディキンスンも
収録されていた。三、四篇はあったと思うのだが、
「悲しみのようにひそやかに 夏は過ぎ去った」
というフレーズで始まる詩が素敵で、これだけで
私はディキンスンが忘れられない詩人になった。

映画の中では、たくさんの詩が朗読されていたけれど、
この詩はなかったようだった。『対訳 ディキンソン詩集』
(岩波文庫)には掲載されている。
「As imperceptibly as Grief」で、この詩の四行目、

 A Quietness distilled

だが、私がかつて読んだ詩集では「蒸留された静けさ」
となっていて、なぜかここが一番好きだったのだけれど、
岩波文庫では「ある静けさがにじみ出てきた」となっている。
これだけでもう、嫌だな、と思ってこの本はずっと棚の中に
仕舞いっぱなしになっていたのだった。詩の翻訳は、
本当に難しいものである。ちなみにほかにも「Perfidy」が
岩波文庫版では「背信」と訳されているが、「裏切り」の方が、
絶対に良いのに、と思ってしまう・・・。

ともかく、最初にこの詩を読んだ時に受けた静かな美しさの印象は、
私の中ではディキンスンそのものになってしまっていた。

映画の中のディキンスンは、意思が強く、頑固で、
かつ、自分の外見に大きな引け目を感じている女性として
描かれていた。作品と人、ということの微妙なズレは、
短歌の場面でもよく見聞きすることなのだけれど。
この強靭な意思、のイメージは、これからディキンスンを
読むときに、影響を受けそうである。
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ペコちゃん [食文化]

先日、家から二キロほど離れた市道を
車で走っていて、ふと「ああ、このあたりに
ペコちゃんがいつも立っていたな」と思い出した。
不二家のお店があったからである。まずペコちゃんを
思い出し、それから菓子店を思い出すあたりが、
明らかに「昭和の人間」・・・・。
お菓子より、ペコちゃんの衣装が気になって、
今日はどんな服装で立っているのかな、と
気にかけながらこの通りを通ったものだった。

ペコちゃんは、私たち昭和二十年代生まれの
者にとって、幼児の記憶には欠かせない
キャラクターだったなあ、と改めて思う。

その後、漫画やテレビや映画などを通して
次々に新しいキャラクターが生まれてきた。
それらは、動き、喋り、彼ら自身の主張や
個性を持ち、生き生きと行動する存在だったから、
子供たちはたちまち彼らに魅了されていった。

対して、ペコちゃんはどうだっただろう。
あれだけ有名なのに、一言も発しない。
着せ替え人形としての位置に甘んじ、
舌をぺろりと出して、首を振っているだけ。
その奥ゆかしさもまた魅力ではあるのだけれど。

鉄腕アトムやドラえもんが登場したあたりに、
ペコちゃんを主人公にしたアニメができていたら
どうだったかなあ、などと夢想する。
ファンタジー系の展開でも可能だと思うが、
ペコちゃんは美人じゃなくて、愛らしい方だから
日常的な、どちらかというとギャグ系になるかも。
ポコちゃん相手に、ボケと突っ込み風の
お茶らケやってみても面白いかも。
いろいろと想像してみると楽しい。
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切山椒と母 [短歌]

切山椒は、上新粉、砂糖、山椒の粉(あるいはつけ汁)を
混ぜ、蒸して搗き、拍子木型に仕上げるお菓子。
私は、中山圭子『和菓子の世界』(2006)で初めて知った。
11月の酉の市で売られることで知られる、主に
関東など東国に伝わる古いお菓子らしい。

先月末に刊行した拙著『郷土菓子のうた』のなかで、

 切山椒たまへ昔の香に似たる薄き甘味は母のさびしさ  
                 馬場あき子『月華の節』

を取り上げ、このお菓子に言及した。その際、この歌の中の
「母」を、「古い家族制度のもと、家族や地域社会に従属
せざるを得なかった女性たち全員を指している」とし、
かつての冠婚葬祭時、女性たちの負担が過酷だったこと、
そのため「古い行事菓子には、しばしば苦い記憶が詰まっている」
と結んだ。「母のさびしさ」を一般化して読んだ方が、作品も
深まるのではないか、と思ったのだけれど。

8月17日の神奈川新聞の文化欄で、歌人の中川佐和子さんが
拙著を取り上げて下さっていて感動したのだったが。
この馬場さんの歌の解釈については、私とは異なっていた。
歌集中の前後の歌から、この「母」とは馬場さん自身の
継母を指しているとされているからである。

その文章を読みながら、中川さんのご指摘は、作者個人の
側からすれば、正しいのだろうな、と思った。でも、
それだけだと、切山椒というお菓子の重みが軽減されて
しまうのではないか、と(負け惜しみに聞こえるかも
しれないのだけれど)考えた。連作から一首を
切り離して評する難しさ、を思ったのである。
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燐寸は要らない [生活]

短歌を始めたばかりの頃、近くの地域センターで
開催されている短歌の会に、参加させてもらっていた。
世話役をしていたTさんは私の母と同世代で、当時五十代半ば。
関東育ちの人らしく、シャキシャキとした物言いをする、
素敵な女性だった。彼女の名はTさん。
お宅が会場近くだったので、寄せてもらったこともある。
すっきりと整頓され、部屋の調度品などのセンスも良く、
見習わなくちゃ、と思わされたことだった。

歌会のときは、有志でお茶会に参加していたが、
その時に立ち寄った喫茶店の燐寸の箱がとてもステキで、
「一つ頂いていこう。Tさんも、どうぞ」
と、脇に用意されていた予備のなかから一つ取って、
Tさんの前に置くと、即座に言われた。
「燐寸は要らないの。うちにタバコ吸う人はいないし、
コンロなんかも、みんな電池式で着火できるのよ」

私の家も、当時燐寸が必要なのは、食卓で
鍋料理するときに利用するガスコンロだけだった。
夫の友人に煙草を吸う人はいるから、燐寸自体は
あった方がいいが、なくてもいい、くらい。
ただ、きれいな箱の燐寸を手元に置くのも
すてきじゃないか、と思っただけなのである。

その時の一言は、三十四年を経てもまだ、
時々、思い出す。彼女の年齢に近づき、追い越して
しまい、さらに彼女の死を伝え聞いた今、とりわけ身に染みる。
生きていくうえで、必要なものはほんの少し。
よけいなものはどんどん省き、大切な、良いものだけを
ほんの少し、身近に置くべきなのよ。
と、今も彼女から諭されている気がしている。
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淵に立つ [映画]

「淵に立つ」もまた、最近、WOWOWで見た映画。
家族映画は、つまらないと徹底してつまらないから、
とやや危ぶみながら見始めたのだけれど。最後まで、
緊張感の続く、怖い映画だった。これまで見た
家族をめぐる映画で、私は西川美和監督の「ゆれる」が
ベスト、と思っているが、この映画はそれに次ぐくらい
よくできている映画だったと思えた。

郊外で小さな工場を営む夫婦と、十歳の娘の家族。
夫婦はほとんど目も合わさないほど、互いの心が
離れてしまっているが、そこに夫の古い友人が
訪ねてきて、住み込みで働くようになる。

夫と友人の間には、だれにも言えない秘密があった。
妻は人当たりのいい夫の友人に好意を抱くようになり・・・。
友人を演じる浅野忠信がすごくいい。
上品な印象を保ちながら、くらい影を持つ謎の男を
好演している。ごくたまにふっと見せる冷酷な感じと、
静かな平和な一市民と言う感じを違和なく同居させていて。

この男が再びこの家族のもとを去っていく直前、
残酷で取り返しのつかない罪を犯していく。
夫婦はこのことによって、初めて絆を取り戻していく。いや、
「夫婦」という関係から、一つの「運命共同体」へと
変化せざるを得なくなった、と言う方が実情に合っている。

あらためて、家族という存在は怖いものだ、と思う。
その本質を、ある一面から抉り出した、という点では、
やはり秀逸な作品であると言っていいのではないか。
こんな映画を見ると、ますます若い人は結婚しなく
なるのではないか、などとよけいなことを考えてしまうが。

最後の一場面に、ほんの少し救われる。
娘は救えなかったのかもしれないのだが・・。
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ラーメンと煙草 [食文化]

私の住む町は、ラーメン店が多くて、
直ぐ近くの市道は、「ラーメン街道」などと呼ばれて、
テレビで報道されたこともあるくらいである。
十年ほど前に某チェーン店が進出してきて、
個人経営の店はばたばたと撤退していったが、
ずっと変わらずに頑張っている店もあり。
また、新たに開店する店もありで・・・。

駅を挟んで南北に1,5キロくらいの間に、
中華料理店も入れて、十軒余り、
「ラーメンの食べられる店」がある。
でも、この中で私が食べたことのある店は
チェーン展開している、二、三店のみ。

一度、個人経営のラーメン店にも行ってみたいと
思うのだけれど、未だに行けないでいる理由は、
カウンターだけの店が多く、客はほとんど男性。
どうしても一人では入りにくいのである。

それで、相棒を誘うことになるのだが、彼は
「ああいう店は、ほとんど、喫煙可、なんだ。
カウンターでたばこの煙浴びせられながら
ラーメンなんか食えるか!」

と、拒否されっぱなしなのである。
まあ、私もたばこの煙は大嫌いだから、
(歩きたばこの人が前を歩いていると追い越す。
ちなみに先日神戸に行ったとき、どこもかしこも
歩きたばこの人だらけ。観光に力入れるんなら、
何とかしてほしい!)
彼の言い分は、もっともだと思うけれど。

「開店と同時に、あまり人の来ないうちに
行って、食べたらすぐに帰ってこようよ」
と、誘うと即座に言われた。
「煙草を許可するようなラーメン店そのものが嫌だ」
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日本語が読めない!? [言葉]

一年半ほど滞在したアメリカから帰国し、
初めて日本の新聞を読んだ時、焦った。
「う、日本語が読めない!?」
ところどころで意味不明に陥り、何度も
前に戻って読み返す、ということになった。
滞米中、ほとんど日本語の文章を読んでいなかったので、
読解力が明らかに落ちていた。

言い訳に聞こえるかもしれないが、それは日本語自体が、
既知とみなされる情報に頼ったまま、部分、部分が省略されて
発せられる、かなりあいまいな言語であるからだ、
と気が付いたのである。

そんな日本語も、帰国数日でたちまち慣れたのだけれど、
今も時々、文章を読んでいて「あ、どういうこと?」と
疑問がわき、同時にあの帰国時の焦りを思い出してしまう。

今朝も、朝日新聞朝刊の25面、「美談演出『誉れの子』」と
いう見出しのついている記事を読んでいた時に、その時の
焦りがフラッシュバックする感覚を味わった。これは、
戦時中、戦死した父を持つ少年が、美談に仕立てられ、
報道された経緯を伝える記事なのだが、

例えば
  《おらあ、お父(と)をおぶって帰ってくる》・・・・写真には
   こんな言葉が添えられた。しかし、八巻さんに話した記憶はない。

私はまずここで躓いた。「八巻さんという名の相手に、こう告げた記憶が、
発語主体にはない」というようにまず読んでしまった。
はて、八巻さんって、誰のこと? と疑問がわき、記事の冒頭を
読み返すことになった。ここは「こう話した記憶は、八巻さん自身には
ない」とすべきところだったのだ。

さらにその少し後に出てくる

  「お国のために活躍し、誇りだった」という父を恨む気持ちも
   戦後になって芽生えた。

というところも、話の流れをきちんと掴んでいないと理解しづらい。
「」内の言葉を本人が今発しているように、耳で捉えてしまうと、
後の文章がちぐはぐに思えてしまうのである。
ここは、添削しようとしても、難しかった。本人がどう思ってきたか、
もう少し聞き取りしないと表現できない、微妙な感覚が
あるからである。「戦死してしまった父を恨む気持ちも、戦後に
ようやく芽生えるようになった」あたりが、穏当かもしれない。

新聞は多くの人が同時に目に通すメディアである。
読みやすくわかりやすい表現がもっと求められていい。


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恐怖映画ふたつ [映画]

夏休みのせいかも、WOWOWでもホラー映画を
かなり多めに放映していて、立て続けに二本も見た。
一つは『The Visit』(邦題は「ビジット」A作とする)。もう一つは
『Don't Breathe』(同じく「ドント・ブリーズ」カタカナだと
いずれも、変な感じがするが・・・。こちらをB作とする)
A,B、二つの映画に共通点があって、面白く思った。

Aは二人の子供が休暇を利用して田舎にある祖母の家に一週間の
予定で滞在する。わけあって、祖父母とは初対面だった。
楽しいはずの休暇が一変してしまうのは、この祖父母に
おおきな秘密があったからで・・・(これ以上はネタバレに
なってしまうので省略する)二人はその後、とんでもない
恐怖を味わうことになるのである。

B作の方は、窃盗を繰り返している若者三人が
盲目の元軍人の家に盗みに入る計画を立て、実行に移す。
ところが、その軍人にも恐ろしい秘密があって、三人は、
命にかかわるような恐怖を体験をしてしまうのである。

自ら訪れた家に、思いもかけない魔性の人間が住んでいて・・、
という展開がかなり似ている、と思われたのである。
主人公たちは、知恵を絞り体を張って、危機を突破しようとする。
そのプロセスがいかにうまくできているか、に
映画の魅力はかかっているように思う。

私は断然B作の方に軍配を上げたい。
Aは、途中からかなり展開が不鮮明になってしまう。
というのも、この映画自体が、子供たちが回し続けている
カメラによって撮影されたものである、と
最後まで徹底されているからである。試みは面白いが、
最後の十五分は、第三者の目、によって展開を見たかった。
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北海道ミニ(最終回) [旅]

観光バスの同行者のはぼ半数が、阿寒湖湖畔の
ホテルに宿泊するらしい。彼らのほとんどが中国の人。
いずれも阿寒湖周辺の高級ホテル。
北海道の観光はすでに、中国の人たちに大きく依存する
ものになっているのではないか、と言う気がしてくる。

ほとんどの日本人が予定時間にバスに戻ってきた。
この後、釧路空港あるいは釧路駅、
プリンスホテル、のいずれか希望するところで降車できる。
私たちは釧路空港を希望した。午後七時の飛行機で帰京するため。

バスはこの後、どこにも停車せずに、まっしぐらに南下する。
窓の外の景色を眺めて過ごす。このあたりは大きな酪農農家が
多く、道路に沿って「〇〇農場」と記した看板を立てている。
阿寒湖で二時間の休憩時間があるくらいなら、この中のひとつでも
見学したかったなあ、と思えてくる。アメリカのミネソタ州に
ホームスティしていた時、近くの巨大な農場を見せてもらったことを
思い出す。サイロや牛舎、二階建ての家くらいもある巨大な機械類・・・。

北海道の観光なんだから、北海道らしさを見るということで
そんな訪問先が付け加わってもいいのではないか。
今回は二つの定期観光バスに乗ってみたけれど、どちらも、
何処か物足りなさがあった。今回の釧路発の阿寒バスは雄大な
北海道の自然の一部に触れることができて、そこは満足して
いるのだけれど・・・。

自家用車やレンタカーで訪れる人が大半になっている今、
観光バスの充実は難しいのかなあ、と思う。でも、また
北海道を訪れるとき、私は観光バスを使おうと思う。
ぼんやりしながら景色を見る楽しみが、何より代えがたいから。
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