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おいしもん話(その3) [食文化]

アメリカ滞在の収穫はいろいろあったが、、他国の人々と知り合え、
互いの国の文化について話し合えたことはとりわけ大きかったと思う。
中でも、各国の料理について教え合い、もてなしあえた
ことは良かった!今も暮しの中で役立っているから。

普段の料理の中にも取り込んでいるものがいくつかあるが、
今回はその一つ、セビーチェについて書いてみる。
ペルー出身のソフィアの家に招かれたとき、教わった
ペルーの家庭料理である。彼女のお母さんは、
あまり料理は得意でなさそうで、これだけは誰でもできる、
と言っていたほど簡単で、日本人ならきっと好きになる味である。

って、書いておいて、実はどういう作り方だったか、
結構記憶はあいまいなのである。自分で工夫しながら、
改変してしまっている部分の方が多いかもしれない。

とりあえず、我が家の作り方だが、
①主材料として、新鮮な魚介類を用意する。イカ、タコ、
ホタテガイ、そして白身の魚(スズキ、タイなどが最適)
を薄切りにする。
②玉ねぎ、にんにくを薄くスライスする。
深さ二センチくらいの大皿に②を敷き詰め、月桂樹の葉を
一枚載せ、好みで、赤唐辛子のみじん切りを少々、加える。
その上に、①を重ならないように並べる。

レモン一個分の絞り汁に同量のワインビネガー、
①、②の重さの1%強の塩、適量の胡椒をよく混ぜ、
先の皿全体にまんべんなくかける。

皿にラップをかけ、冷蔵庫で二時間くらい冷やすと、
出来上がり、である。好みで、オリーブオイルを少々、
たらしてもいい。

私はフランスパンの薄切りに、ガーリックバターを塗り、
さっと焼いて、添えることにしています。
美味ですよ!

調べてみると、この料理は、いわゆるクレオール料理の一つ、
とされているらしい。ペルーでは、スペイン人、ケチュア系の人々、
中国人(ちなみに、ソフィアは母方の祖父が中華系、父方の祖父が
ケチュア系、両祖母はスペイン系、とのことだった)
などが混交していて、そうした他民族の文化がまじりあって生まれた
料理なのだそうである。生のお魚を使うところはもしかすると、
日本人の文化も少し取り入れてあるのかな、とも思うのだけれど。

そういえば、ソフィアのペルーの家の近くには日本人が
住んでいる地区があった、と言って、「日本の歌」を
断片的に歌ってくれたことがあったが、意味不明であった・・・。

おいしもん話(その2) [食文化]

引き続き、食べ物ネタです。

もうずいぶん前のことになるが(八十年代)、
ニコタマ(二子多摩川)の高島屋レストラン街に、
ポールボギューズのお店があった。

一度食べに行こう、と相棒と話し合っていて・・・。
お給料日に、勇んで出かけたんだけど。
たちまち凹んだ。というのも、スープ一杯が
1800円、とかいう値段で、主菜にサラダ、飲み物などを
頼むと、一人分でも一万円近くになりそうな値段だったから。

それで、同じ階のお店を探してみると、
アルテリーベというドイツ料理店があって・・。
そこの方がかなり予算に見合うものだった。
ポール…の方は、もう少し、お金持ちになったときのために
とっておこう、ということになり(まだ、行ってはおりませぬ)。

アルテリーベでは、アイスバインという料理を注文した。
豚の塊肉を塩漬けにしたものを、
セロリや玉ねぎ、香辛料と共に煮込んだ、
いかにもドイツの家庭料理、って感じの料理である。
少し酸味のある、ライムギパンで食べる。これは結構美味だった。
正直なところ、ドイツ料理なんて・・・っておびえていたんだけれど。

味をしめて、再び出かけてみると、
「お客様、アイスバインは、予約制になっております。
あらかじめ注文しておいていただけないと、お出しできません」
などと言われて、それからこのお店から足が遠のいた。
そうこうするうちに、ニコタマから姿を消してしまい・・・。

一年位前、横浜に行ったとき、アルテリーベがあったので、
懐かしくなって入ったのだが、なぜか、この店、
フランス料理店(?)に鞍替えしておりました。

以前に食べたアイスバインが懐かしくて、自分で
作ってみようとしたことがある。でも、
塩漬けの豚肉の、塩加減が、結構難しい。
あんまり薄すぎてもつまらない味になってしまうし、
濃かったら・・・もう、悲惨である。

市販のアイスバインを使って作ってみたが・・・。
この市販のものの味が、まったくアイスバインらしくない。
(ベーコン、というに近い)

アイスバインは、一度お目にかかったっきり、もう会えなくなって、
いよいよ恋しい異性のような・・そんな気もする料理なのだった。

おいしもん話 [食文化]

短歌について、ちょっと煮詰まっているので、
食べ物に逃げこもう、ってわけでもないけど・・・。
美味しいものの話、です、今回は。

学生時代。
付き合っていた男(って、今の相棒だけど)に
「秋山ちえ子って人の息子さんが、新宿
シチューのお店やっているんだって」
などという話をすると、かれはすぐさま、
「そこ、食べに行こう」と言う。
調べてみると、新宿西口のそばの、小さなお店だった。
この店のビーフシチューは、当時の我々のふところからすると、
けっこう高価だった記憶があるが、
相棒は味が気に入ったみたいで、それから何度か食べに行った。

私の周りの男性たちは、どちらかというと和食好きが多く、
主食がパンとか、まして、トマト味のしちゅーなんか、
「勘弁してくれ」と言わんばかりの人が多かった。
それで、付き合っていた男が、洋食に抵抗ないらしいことに
少々、というか、かなりほっとしたのだった。

私ももちろん、好きだったので、美味しいビーフシチュー
作れたらいいな、と思ってきた。

大学を卒業してすぐに就職した某自治体の配属先で、
同期の女子は私ともう一人、栄養短大卒の人だけ。
すぐに彼女と親しくなり、私は彼女から、いろいろと
料理の秘訣を教わっている。その一つが、ビーフシチュー。

それも、比較的安価なすね肉を使う方が美味しい、という
合理的なシチューである。自分なりに作り方を変えながら、
我が家の重要なメニューに収まることになった。

今も、シチューを作るときは、力が入る。
お肉をしっかり選んで、前日から準備に入る。
パンも美味しいパンじゃなくちゃ、と
少し遠いパン屋さんまで足を運んで・・・。

あの秋山のシチューのお店、どうなっているのかな、
と最近ネットで調べてみたら、もう閉店しているらしい。
秋山ちえ子さんも亡くなられたし・・。
ちょっと寂しい。

ところで現在発売中の、「明日の友」(婦人の友社刊)早春号に
「驚きの二刀流」という題で、アメリカでの食体験についての
エッセイを掲載しています。ちょっとチェックしてみてね。

口語短歌(その4) [短歌]

我らが「塔」の主宰、吉川宏志さんは、
お若いときから(今ももちろんお若いけれど)
文語短歌を主として詠まれてきているけれど、
かなりの頻度で口語でも詠まれている。

使い分けて詠んでいる、というよりも
ごく自然に口語が混じってくる、という感じかな。
彼の口語の歌が、私は実はとても好きなのだった。
彼の文語の歌には「あれ、ぎこちないんじゃないかな」
と思ってしまう時があって(う、彼のファンから殴られそう)
そんなとき、口語の歌に出会うと、ちょっとほっとしたりも・・・。
好きな歌をいくつか。

  花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった
                       『青蝉』
この歌は俵万智さんが著書の中で取り上げられたことでも
有名になった歌。みずみずしい感覚が生きていて、
読むたびにじ~んとなる。好き、としか言えない歌。

  春鳥が見上げる喉の白きこと まぼろしますか まぼろすだろう
                        『同』
まぼろす、という動詞はないんだけれど、ありそうな感じがしてくる。
ユニークな歌で、彼はほかにも短歌に独自の序詞を作り出して詠んだりも
している。まじめな彼の、意外にお茶目な面を見る感じがする。

  秋の夜のわれを照らしていた人は触れると割れるランプだったよ
  このまま曳いていくしかない舟に紫苑の花を載せてゆくんだ
                       吉川宏志『曳舟』

  おそらくは砂漠に君はいるだろう 舌に砂が。 脚は。 脚はもう無い。
  お母さん、殺していいものをこの紙に書いてよ蟻とか団子虫とか
                       吉川宏志『鳥の見しもの』

句読点の多用は、最近の口語歌の影響かなあ・・・。
ところで、このたび、吉川さんは牧水賞を受賞されました。
おめでとう、吉川さん!

口語短歌(その3) [短歌]

口語短歌についていろいろ書きたいことはあるけれど、
何かまとまらないうちに、時間が過ぎてしまった。
このところやたら雑用が多く、振り回されている感じ。
それに、私は、来る15日締め切り(消印有効)の
「塔短歌会賞」の原稿のまとめ役と、コピー係をしている。
短期間に7~800枚のコピーをとり、各編ごとにまとめ、
応募一覧を作り、七人の選者と編集委員に
送らなければならない、というガテン系(?)の
仕事が待っているんだった!

まあ、それはそれ。

今日は口語短歌というより、文語の歌に惹かれる
理由の一つの方について書いてみる。それは
歌のことば。日常の会話では使わないことばだが、
短歌の世界では大手を振って通用する、という例が沢山あり、
私はこういう言葉を使ってみる、ということがムショウに楽しい。

なかには、なんて面倒なことを!
と嫌う人がいるし。その気持ちもわからないでない。
先日の歌会でも「母に肖(に)し」という表現が使われた歌に対し
「どうして『似し』にしないんだ」との不満が一部から出た。

そのときは「歌人は使うよね」としか言えなかったけれど、
「似る」と「肖る」の差異について、考えてみたい。
一部の特徴ではなく、特に、姿かたち、雰囲気など全体的に
似ている場合は、「似る」ではなく「肖る」と用いたい感じがする。
それも、生きている対象、何か命の匂いを漂わせている対象については。

  ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一台
                  塚本邦雄『感幻楽』
のなかで、「肖る」が「似る」だったら、かなり異なる印象に
なってしまっていたところ。ここは「肖る」で立ち上がった歌だと思う。

このこだわり感覚は、やはり短歌をやっていると、自然に身についてきちゃう、
という気がするのである。それも、文語で。口語でも
あり、かもしれないが、その領域はぐっと狭くなりそうだ。

ほかにも、「羨(とも)し」「邃(ふか)し」「美(くわ)し」
なんか、使いたくなる。微細なところに、思いっきり凝りたくなる。
この楽しさ! って、相棒に話すと
「もう、ビョーキだね」と笑われるけれども・・・。