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国際化時代・短歌の翻訳 [短歌]

ペンギンブックスから出版されている『The Penguin Book of Japanese Verse』。
古い本で、初版は1964年である。でもそれなりに版を重ねているようで、
私は滞米中に購入したのだが、その1983年版は第九刷である。

古事記から始まって、谷川俊太郎の詩まで含まれているので、
すごく幅広いものになっている。この中には、近代の短歌も
いくつか収められているのだが、基準がよくわからないのだった。
七名だけの作品なのに関わらず、なんと明治天皇の短歌が
五首も選ばれちゃっているのである。ほかには、
伊藤佐千夫、与謝野晶子、正岡子規、斉藤茂吉、
石川啄木、若山牧水である。

選ばれている歌も、たぶん、英訳してピンとくる作品、
というのが基準なのかもしれない。

  Close to death
  Lying next to mother;
  The raucous croak
  Of paddy frogs
  Reaches the heavens.

死にちかき母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
                      斉藤茂吉『赤光』

国際化時代・短歌に翻訳 [短歌]

英語の韻文を短歌に翻訳した本がある。
エドワード・ゴーリー『うろんな客』。訳者は柴田元幸。

内容は、ある家(家族は、両親、祖父母、七、八歳と見える少年)に
何やら得体のしれない生き物がやってきて、勝手に住み着いてしまい、
家族をさんざん翻弄する、というもの。
不思議なイラスト付きで、この生き物、何だろう、
と想像が膨らむ。犬かサルみたいなペット? あるいは奔放な次男坊?

英語の文章は、とても幻想的でややコミカル。
きれいに韻を踏んでいるので、軽快で音楽的である。
たとえば
  
  It joined them at breakfast and presently ate
  All the syrup and toast, and a part of a plate.

  そいつは、家族の朝食に加わり、やがては
  シロップやトーストや、さらに皿の一部まで食べちゃう。
                 岡部史訳

という文章が
   夜明くれば 朝餉(あさげ)の席に加わりて
   パンに皿まで 牛飲馬食
             柴田元幸訳

と訳されている。こんな風に、すべての節が
五、七、五、七、七に置き換えられ、最後は
四字熟語(あるいは四樹熟語風)に訳されているのだった。

原文がきれいな韻文なので、思い切って短歌風に仕上げられたのだろう。
あとがきには水原紫苑さんへの謝辞が述べられている。

面白い試みだな、と思う。
短歌と英詩との、不思議なコラボを読むようで、
開くたびにいろいろと発見があって、私には楽しい。

難をいうと。
ちょっと、窮屈な感じもするところ。
さらに。最後がすべて四字熟語では、
全体がどおおおん、と重くなってしまっていないか、
と思われるところ。

国際化時代・さらに [短歌]

英訳された短歌、特に、和歌、を読むことは、
見慣れていた光景に、思いもかけないような、
美しい夕日がさしたり、思いがけず明るい
日照雨に出会ってしまったような、
ちょっと、ぞくぞくするような経験である。

どこかかたくなな古さ、というか
わからなさを含んでいる万葉の日本語に、
新たな地平から解答が与えられるような、
そんな小気味よさを感じることもある。

訳者の技量はもちろん、問われることではあるが。
さらに、原詩のもつ、匂い経つようなポエジーが、
言語を超えて、人の心を打つ。
その感動が、異国語に乗り移る、ような気がするのである。

  On the heavens

On the sea of heaven
the waves of clouds rise,
and I can see
the moon ship disappearing
as it is rowed into the forest of stars.

素晴らしい英詩だけれど、ご存じ「柿本人麻呂歌集」の中の一首。
訳者はリービ英雄である。(『英語でよむ万葉集』所収)

 天(あめ)を詠める

 天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ (「万葉集巻7 1068」)

  

国際化時代・続 [短歌]

短歌を欧米の言語に翻訳して
紹介する試みは、かなり以前から行われている。
それも英語ばかりではない。
以前チェコへ行ったとき、日本の短歌が好きだ、
という人に会ったことがある。彼が持っていたのは、
日本の万葉集などを中心とする古典の翻訳版だった。

翻訳版で読まれる短歌となると、万葉集など一番
訳しやすく、理解されやすいのではないか、
と私も思うのである。
なんといっても、叙景歌が多いし、
奈良や富士など、海外でよく知られている地名が
多く登場するからである。

リービ英雄著『英語でよむ万葉集』は
なかなか素晴らしい本で、私はかなり
繰り返し読んでいる。
英語版の万葉集も素敵なんだけれども。
さらには、
どんなふうに万葉集を英語に翻訳したか、
その苦労話がたっぷり盛り込まれているところも
魅力的である。いわく

  中国から輸入された言語で日本人が書いた散文を
  アメリカ大陸の言語に訳していると、言語の
  輸入が真っ盛りであった島国の文化の位置が、
  かえって強く印象づけられてしまう。

だとか、

  「東歌」を英語で Poems from the Eastland
と呼んだとき、「東」は特殊な領域で、決して中心
   ではないということが何となく伝わるが・・・・
   歌によって原作の趣は英語に表れたり、表れなかったり・・・
   成功度は歌によって違う。

さらに
   同じ固有名詞の中でも「富士山」のように世界中で
   知らない人はいないものなら、・・・情景の美しさが
   ほぼ完ぺきに翻訳で復元できる。

こんなくだりを読むと、ああ、やっぱりなあ、と
ため息が出てくる。当たり前のようだけれど、
叙景歌は訳しやすく、そしてその知名度は決定的なんだ。

国際化時代 [短歌]

「日本のみそを、世界に販売しようという
動きがあって、北米ではかなり実績を上げているらしいんだ」
先日、わが相棒がこんな話をし始めた。彼の専門領域に関わるところである。
ふむふむ、と聞きつつ
「でも、消費者は日系人か日本からの滞在者が中心じゃない?」
と、やや水をかけるような意見を言うと、
「それだけではないらしい。一番売れているのが
みそ入りのドレッシングらしいから」

なるほど。現地の需要に合わせた形で、手を加えているのだ。
日本は少子高齢化、加えて食生活の洋風化でみその需要も
減っている。販路を世界に求めるのは当然の成り行きだろう。

では、短歌ではどうなのかな、と考えてみる。
まさに少子高齢化、趣味の洋風化、というか日本の
古典的文化への興味の相対的低下もあって、
短歌愛好者の高齢化はかなり進んでしまっている。
このあたりで国外進出っていうのも、一つの打開策じゃないのか?

とはいえ、俳句のほうは、世界に認知され愛好者は多いが
短歌はさほど知られていない。これから先、
短歌が海を越えて知られていく可能性ってどのくらい
あるんだろう。(この項、続けます)

雨のことば [言葉]

倉嶋厚監修『雨のことば辞典』をぱらぱらとめくっていたら、
「大抜(おおぬけ)」という項目が目に留まった。
山形県西置賜地方で夏に河川が氾濫するほどの大雨が
降ること、だそうである。私はその西置賜地方で、
中学生まで暮らしていたが、「大抜」なる言葉、
思い出せそうな感じもするが、かなりあいまいである。

ただ、梅雨の終わり頃や、夏の終わり頃に大雨が
降ったことは記憶にある。最大のものは、私がこの地方を
去って、東京に引っ越してきたその年の八月末に起きている。

土砂崩れなどで鉄道は止まり、高校へ列車通学していた
友人たちは帰宅できなくなって、大変だったらしい。
だが、もっと大変だったのは、川が氾濫し、
私が幼児期に住んでいた地区が水没、
川沿いの十数件の家屋が、水流に跡形もなく押し流されてしまったこと。

それでも犠牲者は出なかった。住民はいち早く避難していて、
だれも残っていなかったからである。というのは、この町の大人たちが
「大抜」なる言葉を知っていたからかもしれないな、
と、ふと思った。

東日本大震災のときに大きく報道された
「てんでんこ」なる言葉も思い出される。
土地によって、災害の形はそれぞれ異なる。
その地域性に警鐘の含まれた
短く、覚えやすい言葉こそが、大事だ、と思うのである。