So-net無料ブログ作成
検索選択

耳ダンボ [生活]

先日、ある病院での待合室でのできごと。

その日、私は親族のAに請われ、Aと一緒に、Aの家族の
手術が終わるのをこの待合室で待っていたのである。
手術時間は二時間ほど、と言い渡されていた。

Aは、私より少し年上の男性である。
旅とか歴史とかが好きらしく、また話も面白い。
その日はAから、東北三大祭りやら富山の風の盆など、
私が観たことのない日本の祭りの話を聞いていたのだが、

「最近、江の島に行ってきたんだ。
子供の頃に引率されていったのは、実際は島の手前
までだったんだって、気が付いた。
奥の方に、児玉神社があってね、あの島は信仰の島だったんだ・・・」
「児玉神社?(私は、二十年以上前に一度行ったことがあるだけ)」
「児玉源太郎だよ、ほら日露戦争を指揮した・・・。
彼は台湾総督府のトップも務めていたのに辞めて・・・」
そこで私も旅順を訪れたとき、日露戦争の激戦地を
見ていたことを思い出した。もう十五年も前のことになるが。
「ああ、悲惨だったらしいね。ほんの短い坂だよ、あの203高地に
つながる道は。日本人の血が滝のように流れたって・・・」
しばらく、日露戦争の話になる。乃木のこと、東郷のこと・・・。

「児玉って言えば、後藤新平も台湾を統治していたよね。
私、お砂糖のこと調べていたから。
後藤は同郷だった新渡戸に、製糖についての調査を依頼したんだったよね」
と、台湾の精糖について(私の好きな分野だから)話を導こうとしたら
「え、新渡戸は岩手だけれど、後藤は四国の出身だろ?」
とAが、クレームをつけてきた。
「ええっ? そうだっけ? いや、でも・・・」

と、そこで意外な声が私たちのすぐそばで聞こえたのである。
「後藤は岩手の出身ですよ」

同じ待合室の斜め前に、私たちが来る前から座っていた三十代の男性だった。
彼の存在はAとおしゃべりしている間中、ときどき、気になっていた。
大きなお相撲取りのような体格。漫画を夢中で読み続けていたが、
三歳くらいの彼の娘がちょろちょろと動き回るので、
時々、大声で叱っていた。また、彼の奥さんらしい人も
出たり入ったりしているが、品のない大声で怒鳴ったりする。

うるさいなあ、感じ悪いなあ、と思える瞬間が多かったのだ。
ところが、彼はその後、日露戦争や台湾統治について、
実に事細かな知識を披露してくれたのである。
「児玉神社の狛犬は、台湾式ですが、
日本にはもう一つだけ、同じ様式の狛犬があります。
どこだと思います? 東郷神社ですよ・・」
などなど。う~ん、なるほど・・・。と聞き入った。

彼は仕事で、日露戦争について調べて、書いているところなのだそうである。
「お二人の話、日露に入った途端、耳がダンボになっちゃいまして」
と笑っていた。
むむ・・・。最近、一番驚いたことの一つ。



『海を越える日本文学』 [文学]

張競『海を越える日本文学』(筑摩書房)をおもしろく読んだ。
中心は村上春樹で、世界各地での、これほどまでの村上人気の
理由について・・・・。

私は、村上がアメリカ文学の文体に大きな影響を受けていること、
そのために、特に欧米のことばに翻訳しやすいからではないか、
と考えていた。さらに、いかにも日本的、と思われる日常的な
あれこれがまったく登場しないこと。
食事はほとんど欧米風、お正月もお盆も鯉のぼりも、
日本的と思われるあらゆる事物が排除されているから。
翻訳されてしまえば、全く欧米の小説と地続きのものになるだろう。

張氏は、そのことにももちろん触れられていたのだが。
そこは、もともと中国出身の方、中国で熱狂的に
読まれている理由を省察されていて、これが私などには
全く意外、藪蛇、目からうろこ、棚から牡丹餅、でした!

さらに一つ付け加えると、張氏は長く日本語に関わってこられて、
日本語の文章はもうすらすら書かれているらしいのだけれど。
(中国の大学卒業後に日本留学、日本で就職

本人も触れておられるけれど、日本語のなかで
どうしてもうまく扱いきれない部分があるらしい。

実はこの本を読んでいて、ほんの一、二か所だけなのだが、
助詞の使い方に、ちょっと不自然だな、と思える部分があった。
もちろん、大手の出版社から出た商業書なんだし、
プロの編集者が手を入れているはずなんだけれども。

日本語の助詞は、外国の人の、特に中国語を母語と
している人たちに、とてもマスターしにくいものらしい。
日本人が英語を操ろうとするとき、たとえば冠詞が
どうしてもうまく扱いきれない、というのに似ているかもしれない。

ヴィクトリアン・スタイル [言葉]

ヴィクトリアン・スタイル、という言葉は、英米の文学
美術建築ファッションなどの分野にも頻繁に使われる。

私は数年前都内の美術館で「ヴィクトリアン・ジュエリー展」なる
催しを見たことがある。この時の印象から、
「ヴィクトリアン・スタイル」とは、英国が世界で最も
権勢をふるった時代、それを追慕する言葉なのだ、
と言い換えても良いのではないか、と思ってきた。

ところで、ヴィクトリア女王の時代は1837年から
六十数年にも及ぶ。日本の昭和時代とほぼ同じ長さである。
決して、一括りにはできないはずである。
それゆえだろう、「ヴィクトリアン・スタイル」なる言葉に込められた、
精神的なものは、現代のアジアで暮らす者には、
見えにくいなあ、とも思う。

こんなことを考えるきっかけとなったのは、
最近、アガサ・クリスティの小説を色々と読み直していたから。
彼女の小説には、この「ヴィクトリア風の」という形容詞が
頻出するのである。たとえば、

  「蒔いた種だもの、自分で刈らなくちゃね」
  エミリィ・アランデルはまさしくヴィクトリア風な意見を述べ・・・
                  加島祥造訳『もの言えぬ証人』 

あれ、こんなことまで、「ヴィクトリアン」なのか、とちょっと驚く。
ヴィクトリアン・スタイルとはあるいは、「ごく英国的なること」の、
強調的な場面でも使われるのかなあ・・・・。
あまり厚くなさそうな氷上に、こわごわと足を踏み出しているような、
心もとない気持ちのまま、この言葉の不思議な味わいに浸っている。

ヒューストン [生活]

「行っておけば良かったなあ、若かったときに。
貴方のように。・・・きっと、人生観、変わっていただろうなあ」
そう言うSは、私の身近な親族で、少し年上の男性。
私が、三十代前半に勤めを辞めて、渡米したことを言っている。

「会社から打診があったとき、まだ三十歳そこそこだった。
行けなかったよ。家族同伴が条件だったから」
彼は当時、二人の幼子がいて、夫婦共働きだった。
奥さんに「辞めて一緒に来て」とは言えなかったのだ。

その後彼は、国内を転々と単身赴任し、
五十代に入ってから、東南アジアの某市に勤務していた。
この海外赴任が、何か大きな心境の変化をもたらしたことは
確からしい。私には、そのあたりの心動きがわかる気がする。

人生の転機は、ともし私が訊かれたら、もちろん一つには絞れないが、
退職、そして渡米は、間違いなくその一つ(かなり大きな一つ)だった。

「三十代の時に打診された勤務先って、どこだったの?」
そう尋ねると
ヒューストン
宇宙基地の街だった。高校生の時、詩を書いていた同級生の、
作品の一節が不意に蘇ってきた。

  「・・・・この町はね、僕のヒューストンなんだよ」

あの頃はみんな、胸の中に自分だけのヒューストンがあったんだった。
行けそうだったのに、行かなかった。
だからこそ、彼にとっての「ヒューストン」は、永遠に輝いているのかも。

ラン・オールナイト [映画]

殺し屋として生きて来たジミーは、
ひとり息子のマイクとも長く疎遠になっていた。

マイクはボクサーとしての夢はかなえられないまま、
結婚し二人の娘に恵まれ、タクシー運転手として働く。
同時に、父親のない子にボクシングを指導するヴォランティアも
行っている。
客待ちをしていたある夜、偶然殺人現場を見てしまい、
加害者のダニーに命を狙われる。ジミーは間一髪、
ダニーを銃殺、マイクの危機を救うのだが・・・。
ダニーとは、ジミーが長く憧れ、従ってきた
組織のボス・ショーンの息子だった。
ショーンは、激怒し「マイクとお前を殺す」。

反発し続けてきたマイクを、ジミーはこう諭す。
「今夜一晩、俺と行動を共にしろ。必ずお前と家族を助けるから」

ジミーを演じるのがリーアム・ニーソン、ショーンはエド・ハリス。
どちらも初老である。特にエドは、かなりおじいさんに見える。
そんな二人が、それぞれの息子のために壮絶な殺し合いを
演じるのである。かなり悲壮だ。

かたや、二人の息子の方は、ダニーは遊び人風で、軟弱。
マイクは謹直な小市民そのもの、って感じ。

おじ(い)さんを活躍させるのは、観客は若者よりも
初老が多いから、というビジネス面からの戦略的なものだろうか。
それとも、若者がおとなしくなってしまった現代世相の反映だろうか。

ところで、映画の原題「Run All Night」と聞いたとき、
一瞬、ランニングの映画? とも思えてしまったのだけれど。
英語のrunには「逃げる」という意味も含まれるのだった。
敢えて邦題をつけるとなると「暁までの逃亡」あたりになるかなあ。

そこで、中国語で「走る」を意味する「跑(パオ)」にも
「逃げる」の意味が含まれていることを思い出した。
日本語では、「走る」はあくまで自律的な運動を表す言葉で、
他者から「逃げる」という語感はない。
「走っている」と、一般には、何かから逃げているように見えるのかなあ。
人間はもともと、何かから逃げるときにしか、走らなかったのかもしれない。
いや、そうなると、日本語の「走る」に「逃げる」の語感がないことを
どう解釈したらいいんだろう・・・。
思いは意外な方向へ進む。
ともあれ、映画の題は、いつも
いろいろなことを考えさせてくれる大切な教師ではある。

シンガポール インド人街 [旅]

シンガポールに出かけたら、必ず行きたいと思っていたのが
インド人街。かつてはタクシーを使ったり、ラッフルズホテル近くに
宿泊したときは、歩いて出かけた記憶もある。
今はMRTの駅ができたので、楽ちんに行ける。

それでも最初は歩いてみようと思った。サンテックの
ショッピングセンターの中を北の端まで歩き、
そのあと西側に歩くとアラブ人街にたどりつく。
そこからほんの十分ほどでインド人街である。

地図で見た通りに歩こうとしたが、
結構苦労してしまった。以前は簡単に横切れた道が
車道が広くなり、横断歩道がまったくない、というところが多く。
見えているのに、なかなかたどりつけなかったりして。
それでも、アラブ人街でモスクを観た後、インド人街へ。
アラブ人街は明らかに縮小している感がある。

人口(国民の一割弱)の割に、勢いを感じるのがインド人街。
インド的なものが巷にあふれている。
行き交うのは明らかにインド的風貌の人々だし。
道路にはみ出しながら売られているリースは
例の黄色と白の(なんて花だったかな?)特有のやつだし。
カレーの匂いがぷんぷんしてくるし。

ちょうどお昼だったので、見つけたレストランへ。
シンガポールのインド人たちは主に南部から
異動してきたタミール系の人たちなので、
インド料理もまた、タミール系のものである。
ナンを置いている店はほとんどなく、
プーリと呼ばれる、ぱりぱりした薄いパンが主食。
後はぱさぱさのインド米。でもこれがさらっとした
カレーに良く合う。スパイスが効いていて抜群に旨い。

リトルインディアのMRTの駅前がテッカという名の市場。
一階は生鮮食料品と観物のお店がずらりと並び、
二階は衣料品売り場なんだけれど。
二階で相棒のシャツを買おうと出かけてみると、なんと
衣料売り場とは、女性用衣料売り場、なのだった。

広い売り場に小さなテナントがギッシリと並び、
行けども、行けどもキラキラ刺繍ミラーワークのついた
パンジャビースーツ風の女性用の服ばかり。
15ドルから29ドルくらいまでの、いかにもみかけだけの安っぽそうな服が
これでもか、これでもか、と言うばかりに並び・・・。
ああ、これぞ、インド世界だ、とため息が出た。

シンガポール 食べ物 [旅]

中華系、マレー系、インド系、の人々が混住する
シンガポールは、食文化の豊かな国でもある。
ホテルの朝食を断ってしまった私だったが、
周辺には朝早くから店を開けている食べ物屋さんが
多々あって、ちっとも困らなかった。

シンガポールの朝食の一つの定番が
カヤトースト、と呼ばれる一種のサンドイッチ。
カヤというのは、ココナツミルクに砂糖と卵を混ぜ、
パンダンの葉で香りづけした一種のジャムである。
カヤトーストはこのジャムとバターをパンにはさんで、
焼いてある、ホットサンドイッチのこと。

一番最初の朝食として、ホテルのすぐそばで
七時から開いているレストランに出かけて
カヤトーストの朝食セットを食べた。
このセットにはゆで卵が二個もついていた!
でも、卵自体が小さ目な上、とろりとした半熟に
仕上がっていて、食べやすかった。
カヤトーストは、食事には甘すぎたけれど。

周囲を見渡すと、出勤前らしいビジネスマンウーマンがいっぱい。
朝から、麺類や揚げ物とご飯などを食べているのにも
ちょっと驚いた。いずれも、4ドルから6ドルくらいで、お手軽な値段。
ほかにもパン屋のイートインで朝食を摂っている人、
出社してから食べるんだろうか、サンドイッチを買ってそのまま
そそくさと出ていく人も多い。
ちなみにシンガポールでは、自宅で炊事する人はほとんどいないのだとか。

シンガポール 人びと [旅]

シンガポールの民族的な構成についてみてみると、
華人と称される中華系が74%強、マレー人が13%強、
インド系が9%強、ということだった。
公用語とされているのが四つもあって、英語、マレー語、
中国語(マンダリン)、タミール語となっているんだけれども,
少々、事情は込み入っている。

シンガポールにやってきた中国人は、福建人、広東人、
そして海南省の人々が主だったらしい。でもそれぞれ
方言が強く、互いに理解しあえない。それで普通語(マンダリン)が
話されるようになったけれど、そこはかなりシンガポール化して
しまって、独特の表現や発音があり、今ではシンダリンと呼ばれるのだとか。
英語もまた然り、でシングリッシュと呼ばれるのだそうである。

シンガポールに出かける前に、少し予備知識を仕入れようと思って、
本棚を漁り、『シンガポールの奇跡』(中公新書)があったので
読んでいた。これはなんと、70年代半ばにシンガポール大学に
教員として招聘された日本人が書いた本なので、内容は相当古いが、
シンガポールという国の初期の(ちなみに独立は65年)の葛藤が
ひしひしと伝わってくる、なかなか良い本である。

アジアの都市国家として、通信や貿易を中心とした発展をめざし、
教育にいち早く、英語を取り入れていった過程も描かれている。
その一方で、華人としてのアイデンテティが失われるのでは、
という強い憂慮もあったことも・・・。
だが、この初期の決断があったればこその、
現在のシンガポールの繁栄である、といえるだろう。

人々の、訛りの強く残る英語を聴きながら、言葉とはまた、
国そのものかもしれないなあ、と感慨深い気持ちになった。