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朝日歌壇から [短歌]

月曜の朝刊には「朝日歌壇」が載る。
ざっと見て「あ、良い歌!」と思える歌に出会えるのは
二週に一度くらいかな。今朝はあった!

  ふるさとに置いてきた姓スーパーのレジ打つ人の胸に見つける 星田美紀
                                    (高野公彦選歌欄)

「あ、いいなあ」と思わず声が出て、そばで朝食を食べている相棒に
読んで聞かせる。とたんに
「へ、それ、そんなに良い歌?」
と、拍子抜けした様子。やれやれ、と思いつつ、説明する。
「故郷にだけあるような、独特の姓なんだよ。
結婚して転居して、もう忘れそうになっていた時に、
ふっと見つけたんだよ、それもスーパーのレジの人の名札に」

続けようとしたら、相棒にさえぎられた。
「田中、とか鈴木じゃない、きっと珍しい姓だね、そうか・・・」
「きっと、田舎の人なんだよね。都会のこんなところで、
同胞が頑張っている、って気がして、感動したんじゃないかな。
郷愁も誘われただろうし・・・」

すると相棒がすかさず言った。
「ケチつけることになるかもしれないけど、ひとつ、問題もあるよ」
「え、何?」
「レジ打ってる人って、たいてい、結婚している人でしょう。
旦那の姓かもしれないじゃない。それだと、かなり感じ変わるよね」

なるほど・・・。
でも、良い歌だな、今朝は少し得した気分。

闘病記(6) 書くか、書かないか [文学]

闘病記、というと私の場合、渋沢龍彦を思い出してしまう。
彼は五十代の時に咽頭癌を患い、声を失っている。
そのときに「死んでも、闘病記なんか書くものか」
と語っていた、という記事をどこかで読んだことがあるのである。

彼は闘病記はなるほど書かなかった。でもかわりに
『高丘親王航海記』を書き残して逝った。
この幻想的な物語には、明らかに喉に異物を
育ててしまった人の感覚が生きている。

かっこいいなあ、と思う。
私も、たとえ死に至る病を患ったとしても、
その経験はこんな風に昇華できたらいいなあ、
とそのときは、思ったのだが・・・。

実は私も、六年ほど前に癌を患った。
宣告されたときは頭のなかが真っ白になるほど動転した。
でも、しばらくすると、自分でも気づかないうちに
その経験を克明に書きだしていた。
ほんと、書かずにいられなかったのである。
その間、渋沢のことを何度も思い出した。カッコ悪いな、
と自己嫌悪にかられつつも、書くことが心の安定になった。

短歌の方も、不思議なもので、ほとばしるようにできる。
書いただけ、詠んだだけで、満足だった。
それを活字にして、読みたい人には誰にでも
読んでもらおう、とは、その時点で思っていなかった。

でも、文章を推敲までしているうちに気が変わってきた。
刊行への意欲が高まるのを抑えることができなくなった。

それで、出版することにしたのである。
題して『二つぶ重い疒(やまひだれ)』

  广(まだれ)より二つぶ重い疒(やまひだれ)雨もよひかも臥しつつ見上ぐ   岡部史

という病床で詠んだ歌から採っているが、この「二つ」には、癌の宣告を
二度受けた経験があることを掛けてある。
この本はもうすぐ青磁社から刊行される。
闘病記なんて、読みたくない、という方も多いかもしれない。
「塔」でお世話になっている仲間には寄贈の手続きを取っている。
せめて本文は飛ばして、挿入した百余首の短歌には
お目通し願いたい、とそんな気持ちを込めて。


闘病記(4) どう描かれているか・続 [文学]

「マイルーム」という映画をご存じだろうか。
長く疎遠だった姉妹を急接近させたのは、
姉の白血病だった。互いの葛藤を押し殺しながら、
二人は力を合わせ、この差し迫った危機に対処しようとする。

姉を演じるのはダイアン・キートン
妹はメリル・ストリープ。彼女の息子を若かりし日のレオナルド・ディカプリオ。
ほかにも名優多数が端役的に出ていて・・・。
良くありそうな話だったが、名演技にかなり感動させられた。

もう二十年近く前に観た映画だったが、この映画を思い出したのは、
最近、今田俊『無菌室二人ぽっち』という闘病記に出会ったからである。
「ふたりぽっち」というのは、ちょっと奇異な感じがするけれども。
これは、「週刊朝日」の記者だった著者と、「アエラ」のカメラマンだった青年とが、
ほぼ同時期に白血病を発病。二人の闘病体験をリンクさせるようなかたちで
展開されているからである。

著者は幸いドナーがみつかって、社会復帰を果たすが、
カメラマンの青年は不幸な結果に終わり、明暗が分かれる結果に。

著者の回復に大きな力となったのが、弟からの骨髄移植だった。
兄弟は、成人して以降、まったく連絡を取り合っておらず、
どこに住み、どんな職業についているのかも互いに知らなかったのだという。

「弟はドナーとなることを断ることもできた。でも、引き受けてくれた」
二人の間に、特に葛藤や憎悪があった、ということではなかったらしいが。
著者は弟がいてくれたこと、そしてさりげなく自分を気遣ってくれたことに、
静かに、そして深く感動し、「病気になったのは、あるいは兄弟の存在を
捉えなおすように、という(天からの)警告だったのでは・・・」
とさえ、感じるようになるのである。

闘病は時に、人を根底から変える。
読者はそのドラマチックな変転に感動してしまうのである。

闘病記(3) どう描かれているか [文学]

先日都心に用事があって出かけたとき、
予定よりだいぶ早く着いてしまい、
近くの書店でなかにし礼『生きる力』を購入してしまった。
どんな書店にも置いてあるような本は敢えて買わない、
という主義で来ていたのだけれど、今回は
自らの禁を破って購入してしまったことになる。

百ページほどの短い本だったことと、なかにし礼という
作家は『長崎ぶらぶら節』とか『兄弟』などを通じて
かなり好きだったこと。それに加え、この書の副題が
「心でがんに克つ」、つまりやはり、闘病記らしかったから。
今興味を持っている分野だからである。

作者が癌を発病してのち、過酷な治療過程を経て、
やがては小康状態を得るまでの十か月間の日記
という形で展開されている。

だが、作者がより重きを置いているのは、自分がどんな文学に
触発されてきたかの方にあるような印象を受ける。
短い書の中に、随分と引用が多いのである。
カミュ、ルソー、ヘッセ、カフカなど、西洋文学が大半なのだが、
現代への医療への懐疑や不満、自らの治療への要望を、これらの
文学とリンクさせるようなかたちで展開させているのである
引用文については、出典が巻末に付してあるほどなのだった。

深刻な病状を前にすると人は誰も、来し方を振り返りたくなる。
自分の人生全体を俯瞰できるような位置に追い詰められている、
という思いが兆すからだろう。
自分がどんな道程を経て、今の自分になったのか、
それを書き留めておきたい、という意志は感じられた。
だから、満州からの引き上げ時の体験などに紙面が多く割かれている。

「闘病記」風の体裁をとってはいるけれども、、
どちらかというとかなり文学的な内容に傾いているのだった。
闘病にまつわる、具体的な内容は少ないからである。
闘病には、カッコ悪いことも多い。それはさらしたくなかったのかもしれない。
でも、ここを書かなければ、読み応えのある闘病記にはならない。

読了後は、購入時の目的とは異なった欲求が、起きてしまっていた。
つまり、闘病そのものよりも、どんな文学や芸術が「なかにし礼」を作ったのか、
もっと知りたい、と思い始めたのである。
読者にとっては、かなり中途半端な一冊になってしまっていると言えるのではないか。